……ここはどこなのか……無の空間か。

 

昨日の夜は母へ私が思っていた事や感じた事を言ってしまい母のプライドを木端微塵にさせてしまった。

母からは「優しいあなたが無くなった」と言われてしまうがこれが私の本音でもある。私の本当の「本音」が出てしまった。

それもこれが原因で相手のプライドや生きる望みを絶たしてしまう程に激情させてしまうとは。

 

その本音とは「父方親族への軋轢」とも言えるのかも知れない。

確かに、父方家系は一般常識が通用しないとも長年母方親族から聞かされていた様な気がする。特に父方祖母が亡くなった

後から如実に出てきた。父や父方祖母が亡くなって

2~3年後に広島の本籍から下関へ転籍を行った。表向きには「弟の結婚」があった様だが内心は「これで、広島に関らないで済む」

と言う思いに感じた。実際私は「一応長男」ではあるが家の事について全く知らない。いや、全く殆ど知らされていない。

金庫の開け方も何も。実際に金融系は父の勤務先の株式の株数くらいしか知らない。その他は全く無知である。知ろうという環境に

されていなかった。そうする事を許されていなかった。実際金庫の事も母と弟しか知らない。20年の長きに渡り同居してきた私が

悪だったのであろう。今になって親戚から早く家から出ていけと思われる様になった。その為に私自身がそういう被害妄想が

酷くなってきたのかもしれない。

 

「あの時私が死んでいれば父も早死にしなくて済んだだろう」とか、「誰も傷つかなくて済んだのだろう」と思う事が最近になって増えた

様な気がする。昭和63年5月中旬に起きた生まれて初めての「交通事故」自転車での飛び出し事故を起こした。この話は我が家でも

私しか知らない話で正確には家族は皆忘れてくれている話かもしれない(私自身が勝手に思っているだけかもしれない)。

田倉橋の交差点で長府方面から来た普通乗用車に轢かれた話。自転車はフレームが曲がるほどの状態でも私は頭部強打でも異常なし

この頃まだ「MRI検査」と言う存在自体が皆無でせいぜいレントゲン画像かCT検査くらいしかない世の中だった。今では重大犯罪に

なるのだが当時は結構蔑にされていた。この事故で死んでいればと思う事が齢40年を超える前後から多くなってきた気がする。

 

この時母から言われたのが「私が何もしないと言われている」言ってきた話がある。確かには母何もしなくなった。

3食作る事も、長府石鎚に上がる事も、自分の親の墓(納骨堂)参りも。3食については私がご飯を食べる事が生理的に無理な事もある。

極偶に外出先で食するが家では食べない。無駄を省くには丁度良いのだがそれはそれで母のストレスを溜めていった。「子供に食べさせたい」と言う気持ちで総菜を腐らす程に買って来る様になった。元々の大義名分は父の看病で時間が無くなったと言っていた様な気がする。

今となってもう真意は分からない。お弁当も最初は作ってもらっていたが隠居との昼食が増え弁当廃棄率が格段に上がった為に弁当制を

廃止した。長府石鎚に上がらなくなったのは自身の体調もあるが根本的にくさがり屋なので(私にはそう見えていた)体がキツイと言っては

毎月23日の月次祭や半期に一回の例大祭でさえも上がる事はなかった。と言うより私が行かさなかった。母には苦痛と勝手に思い込んで

いた。自分の親の墓参りも私が行った時に一緒に行けばいいものを「私キツイからここにいる」と車で御留守番が増えた。夫の墓参りは小まめに行くのに実の親の墓参りを私にさせている事に憤りを感じる事が多くなった。私は抑々母方の祖母が大好きだったので(おばあちゃん子)

だったので苦にはならない。それどころか自分の父の墓に行かない事が多い。行くには行くが霊園の駐車場に自家用車を止めて「お昼寝」が

増えた。その後で御参りはするが結構苦痛でもある。

 

父方の親族と接点を持たれるのが苦痛と感じ出したのもここ10年くらいだろうか。4年前まで父方の墓参りは私一人がしてきた毎年7月の

父方祖母の祥月命日に合わせてしていた。その際もは墓所には上がらなかった(まぁ、上がれなかったが正解か)。今年の5月30日に

約20年振りに私の初宮参りをした「榊森神社」へ参詣した。私の病気(当日の午後に「リンパ浮腫」と診断されるまで「蜂窩織炎」しか判らなかった)平癒と40歳になったので厄払いを兼ねて参詣した。この事も私は母に言わなかった。やたらと広島の事を嫌っているように思えたから。

私にとっては大切にしたかった事、父方親族と仲良くして欲しいと常に考えていたがそれも叶っていない。

 

今回の「リンパ浮腫」に罹患した時に私は「父に縁のある広島で治療が出来る」と喜んだが母的には精神的に苦痛だったと私が思い込んで

しまっていた。広島=父方親族との鉢合わせ率が高くなる。と言う思いが先行してしまっていた。実際に父方親族の一人とはFacebookで一応

繫がってはいる。熊野の家の家督相続人の次男さんである。本来家督相続人は「上信 勝美 家」の長男である父の長兄である海田町在住の

伯父がするのが一般論だが、ここでも半端ないズレが生じている。何故か父の次兄が家督相続をしたからである。この原因として挙がるのが父の長姉の存在である。この方が結構性格がキツイ(自分中心天動説の持ち主)。母も結構ストレスに感じていた様に思える。(思えていた)

 

私の勝手な解釈(思い込み)が原因で母のプライドを木端微塵にさせてのは事実である。これ以上私が生きていても仕方ないという思いで一杯になっている自分がここにいる。本当なら先日の入院で死んでいたら良かったのかなと思ったりしたが金銭的に大打撃をかけてしまうのが面倒とも思った。そして手術直後に待っていたのは「死」ではなく「生存」と言うシナリオだった。但し右足の麻痺と言うお土産付ではあった。

母への甘えもあった。現在社会問題化している引きこもりにも感じてしまっている。早く出ていかないと行けないという気にもなるがまあいいだろうという気にもなる。それがいけない事と知りながらズルズルしてきた20年の無駄な生涯と思うと自分自身が情けないという感情が私には欠落している。そんなもの抑々私に存在していない。

 

でも、「困っている人を助けないと気がすまない」と言う気持ちは何故かある。私自身結構ブラックな感情の持ち主だがこの思いだけは死んでも無くならないだろうかそれとも「見殺し」を楽しむことになるのか。私自身の心の闇はどんどん深くなってきている様な気がする。

 

「みーたん」や姪、家族を愛していた私は仮の私なのか、それともそれが本当の私の姿なのか、ここにきて私の存在価値が薄くなっている様に思える。本当の私はどれなのか。人の不幸を心から賞賛し喜ぶ私なのか、今まで通りの「優しい私」でいいのか。週末に弟家族が帰郷して

来る前に決着を付けないといけない話なのか、それとも…。私の心の闇は深みに嵌っている、もう暗いままでいいのかもしれないという思いの方が強く圧し掛かっている。