「あれから40年」と言う出だしがありますが、
私が葬祭業界に入る切っ掛けになったとある自宅葬を体験してからもう16年が経ちました。
うちの会社5年前に全葬連系の葬儀社のスタッフと施設を購入した際に入社したスタッフの方がいらっしゃるのですがその中のお二方がその方の葬儀を担当した地元の葬儀社にいらしたと言う事実を最近知ったので私自身驚いております。この時亡くなられたのは当時42歳の女性のミルミルさんでした。(本名はともみさんでしたが御自宅の1階の店子さんの商品からつけました。又この当時は前職の介護スタッフだった時です)受け持ちの利用者様の次女様で16年前の今日、末期の大腸癌で逝去されました。
この時私の担当の利用者様には亡くなって直ぐには伝えなかったそうです。私は夕方訪問した時に教えて頂きました。今でも思い出すのは自宅に生花祭壇が飾られておりその花が真っ赤な薔薇でした。故人様から見て姉の方が言うには生前から祭壇にハイビスカスの花で飾って欲しいと遺言されていたそうなのですが、この寒い2月そして田舎の葬儀社なのでハイビスカスが手に入らなくて赤い薔薇になったそうです。祭壇の前には高級彫刻棺が安直され中にはミルミルさんが安らかに眠られておられました。悲しみと悔しさで一杯になりました。帰社後会社に報告して翌日部長と代表が葬儀に参列しました。私はどうしたかと言うとミルミルさんが亡くなった事がストレスになり精神的に参ってしまいお休みを頂きました。これが前の勤務先を退職する切っ掛けになってしまいました。
その後体調が悪化して私の担当利用者様はミルミルさんが亡くなられてから丁度2ヶ月後後を追う様に亡くなられました。私もその時は過労と精神的なもので倒れており通夜すら行けませんでした。この事が切っ掛けになり今があるのです。長々と止めどなくお話させて頂きましたがこれが私がこの業界に入った切っ掛けでした
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でもね、ふと思うのは亡くなる10ヶ月前に私が過労から来た肺炎で済生会に入院してた時に故人と病院の渡り廊下ですれ違っていたのです何回も何回も。その時は会釈だけ(したのかな?)でしたがその時はどうしてと思いましたがあの通夜の日に聞かされたのは私が済生会に入院していた時に大腸癌の手術をしたもののすでに末期状態の為手術が出来なかったそうです。そして本人と長女さん(ミルミルさんのお姉さま)夫婦のみ宣告を受けた後だったそうです。今でもあの時声を掛けていたら少しは良かったかもと未だに自問自答しています。私は現在、葬儀業界ではあるものの御葬儀の担当ではなく仕入と霊柩車運転業務を主にしております。はっきり言って目標の葬祭スタッフからかけ離れております。他のSNSでは表向きはイベント会社勤務としておりますが実際は葬祭業界に足を染めております。婚活の時は一応介護職と偽って参加しております。でも現在は介護福祉士に戻っております。毎年2月7日になるとミルミルさんの事を思いだしています。また「ふれあいバザール彦の市」等の時に彦島に行ったら必ずミルミルさんの家があった所の前を必ず通ります。結構気が強そうで強くない方でした。何時も笑顔が素敵な女性でした。でもその内面は末期のガンを抱えて痛みに耐えていたと思うと今でも涙が落ちてきます。今思えば末期でなくても今頃私の病気と同じリンパ浮腫を発症していたかもしれません。(生きていたらね)生きていたら58歳になります。もっと素敵な女性になっていたと思うと残念でしょうがありません。
ヤクルトのミルミルを見る度にミルミルさんを思いだします。これからも私が生きている限りずっと続けて行く事でしょう。
改めてミルミルさんことともみさんのご冥福をお祈り申し上げます。
(2019年令和元年7月26日加筆訂正しました)