3月11日
カレンダーでは毎年巡ってくる日。生まれてから、歳の数だけこの日も繰り返しているけれど5年前から特別な意味を持つようになった日。
この日が来るたびに、考えることは色々あるけれど…
被災地、と一括りに言われる地域に居て、けれど、幸いに内陸に住んでいる私は、怖い思いはしたけれど、何を失ったわけでもない。
それでも、それまで「あたり前」と思って過ごしていた日々が、廻りにいる人々が、周りの環境が、どんなに有難いものだったかを心から感じた。
それは周りの人たちもきっと同じ思いだったに違いない、と思うのだけれど…
時が経つにつれて感じたことは薄れていくのではないか、と感じ、それに悲しみと寂しさと共に憤りに似たものを含んだ思いを感じる。
なんで人間は忘れる生きものなのか…
あんなに有難いと感じ、身近にある小さな幸せを一つ一つ大切に救い上げることが出来たのに、事あるごとに心がほっこりとするような思いを拾い上げることが出来ていたのに…
温かい飲み物が、一度の食事が、闇を照らす小さな明かりが、家族や大切な人との繋がりが、一つ一つ有難く、嬉しく幸せであったのに…
あたり前に日々は巡り、近所の店に行けばいつでも欲しいものが買えてあたり前。目当てのものが売り切れていれば腹を立て、些細なことに目くじらを立てて不満を爆発させ、持ちつ持たれつも何もなく自分の欲求を満たそうとして「大して面白いこともないしね~」などとぼやき…
なんで人間は忘れる生きものなのか… 全く…
こんなにものがあふれていていいのだろうか。
廃棄処分されなければならない程、食べ物が店の売り場に溢れ返って居なければならないのは何故。
食べ物はすべて命なのに、余らせて捨てなければならない程生産し、流通させ、傷んでもいないのに原価割れするほどの値段で投げ売り、余れば捨て… 平気でそんな繰り返しを続けるのは一体。
世界には一日に一度の食にも事欠く人だっているのに。
穀物一粒、肉一切れ、小魚一匹でも命なのに。
どんな命だって精一杯に生きているのに。
こんな状態を「あたり前」にしていて本当にいいのだろうか。
食事の前の「いただきます」という言葉は、食事を用意してくれた人への感謝「有り難く食べさせていただきます」であるとともに、食材になった数々のいのちへの感謝「大切に命をいただきます」でもあるそうである。
けれど、「いただきます」とも言われず惜しげもなく捨てられるいのち。
浮かばれないよなぁ…
食べ物だけでなく、他のありとあらゆるものに対しても、最近は役目を全うするまで使い切るということはあまりなく、新しいもの、新しいものとポイポイ惜しげもなく買い替えては捨てるの繰り返し。大量生産大量消費… これでいいのだろうか、本当に。
「あたり前」の日々は、本当にあたり前であり続けるのだろうか。
災害でも起こらなければ「あたり前」に疑問も感じず、感謝も忘れ、目の前の幸せを素通りして不平不満ばかり。
そんな繰り返しで日々を過ごし続けて、何かが起きても時が経てば「あたり前」の日々に当たり前に戻れるのだろうか。本当にそれでいいのだろうか。
いい加減にしないと、本当に恐ろしい取り返しのつかないこと、想像を絶するようなことが起きるのではないかと背筋が寒くなるような思いがすることもある。
本当に心して考えなければならない時期が来ているのではないのかなぁ…
震災の番組を見つつ、天災のことばかりではない様々なことに考えが巡り、こんなことを考えていた本日でした。
カレンダーでは毎年巡ってくる日。生まれてから、歳の数だけこの日も繰り返しているけれど5年前から特別な意味を持つようになった日。
この日が来るたびに、考えることは色々あるけれど…
被災地、と一括りに言われる地域に居て、けれど、幸いに内陸に住んでいる私は、怖い思いはしたけれど、何を失ったわけでもない。
それでも、それまで「あたり前」と思って過ごしていた日々が、廻りにいる人々が、周りの環境が、どんなに有難いものだったかを心から感じた。
それは周りの人たちもきっと同じ思いだったに違いない、と思うのだけれど…
時が経つにつれて感じたことは薄れていくのではないか、と感じ、それに悲しみと寂しさと共に憤りに似たものを含んだ思いを感じる。
なんで人間は忘れる生きものなのか…
あんなに有難いと感じ、身近にある小さな幸せを一つ一つ大切に救い上げることが出来たのに、事あるごとに心がほっこりとするような思いを拾い上げることが出来ていたのに…
温かい飲み物が、一度の食事が、闇を照らす小さな明かりが、家族や大切な人との繋がりが、一つ一つ有難く、嬉しく幸せであったのに…
あたり前に日々は巡り、近所の店に行けばいつでも欲しいものが買えてあたり前。目当てのものが売り切れていれば腹を立て、些細なことに目くじらを立てて不満を爆発させ、持ちつ持たれつも何もなく自分の欲求を満たそうとして「大して面白いこともないしね~」などとぼやき…
なんで人間は忘れる生きものなのか… 全く…
こんなにものがあふれていていいのだろうか。
廃棄処分されなければならない程、食べ物が店の売り場に溢れ返って居なければならないのは何故。
食べ物はすべて命なのに、余らせて捨てなければならない程生産し、流通させ、傷んでもいないのに原価割れするほどの値段で投げ売り、余れば捨て… 平気でそんな繰り返しを続けるのは一体。
世界には一日に一度の食にも事欠く人だっているのに。
穀物一粒、肉一切れ、小魚一匹でも命なのに。
どんな命だって精一杯に生きているのに。
こんな状態を「あたり前」にしていて本当にいいのだろうか。
食事の前の「いただきます」という言葉は、食事を用意してくれた人への感謝「有り難く食べさせていただきます」であるとともに、食材になった数々のいのちへの感謝「大切に命をいただきます」でもあるそうである。
けれど、「いただきます」とも言われず惜しげもなく捨てられるいのち。
浮かばれないよなぁ…
食べ物だけでなく、他のありとあらゆるものに対しても、最近は役目を全うするまで使い切るということはあまりなく、新しいもの、新しいものとポイポイ惜しげもなく買い替えては捨てるの繰り返し。大量生産大量消費… これでいいのだろうか、本当に。
「あたり前」の日々は、本当にあたり前であり続けるのだろうか。
災害でも起こらなければ「あたり前」に疑問も感じず、感謝も忘れ、目の前の幸せを素通りして不平不満ばかり。
そんな繰り返しで日々を過ごし続けて、何かが起きても時が経てば「あたり前」の日々に当たり前に戻れるのだろうか。本当にそれでいいのだろうか。
いい加減にしないと、本当に恐ろしい取り返しのつかないこと、想像を絶するようなことが起きるのではないかと背筋が寒くなるような思いがすることもある。
本当に心して考えなければならない時期が来ているのではないのかなぁ…
震災の番組を見つつ、天災のことばかりではない様々なことに考えが巡り、こんなことを考えていた本日でした。