年月を積み重ねながら多くのことを体験するにつれ、

 

 

人は自分と他者を比べて見方の違いを知るようになる。

 

 

 

 

 

10代の頃は自分の見たものが世界の全てだと思い

 

 

他を知ろうともしなかった。

 

 

20代の頃は理解の範疇を超える物事を避けて通った。

 

 

自分と同じ人種と他の人種の区分けをし、

 

 

他を拒絶して自分の世界だけで生きていこうとしていた。

 

 

煩わしい世間の人間関係やどうでもいい雑多なことは

 

 

敢えて見ずに、楽しくて気持ちのいい思考の世界に浸っていれば幸せだった。

 

 

幼い故に世間を甘くみ過ぎていたとしか言いようがなかった。

 

 

そんなわたしもいつしか大人になって世間をみる目が変わった。

 

 

視野が広がったというべきかもしれない。

 

 

他人の多様な考え方や生き方を許容し自分との差が気にならなくなった。

 

 

 

 

心境の変化の大きな原因が何であったのかと問われると

 

 

「生存本能」という言葉が思い浮かぶ。

 

 

小さな囲いの中での自給自足生活に喉の渇きと空腹を覚え、

 

 

自分一人では生きていけないことに気が付いた。

 

 

飢餓状態になって初めて、見える世界が広がったということだ。

 

 

わたしの場合その状態に陥らなければ

 

 

囲いは取り外せなかったのだろうと思う。

 

 

 

 

 

友人の佳世子は若い頃から世間を広く見渡す目を持っていて

 

 

賢く生きるための策略を練っていたと教えてくれたことがある。

 

 

若い頃から彼女にはわたしの何十倍もの「生存本能」が働いていたのだと思う。

 

 

誘われれば行きたくない場所にも出席し、

 

 

人が嫌がることも率先して行った。

 

 

周囲の観察を怠らず社会的な評価が得られる立ち振る舞いをし、

 

 

世の中の様々な人種に合わせて生きてきた。

 

 

しかしある時点から人に合わせる生き方が馬鹿馬鹿しくなって

 

 

自分のしたいことをしてもなんとか生きてゆけると思い始めた。

 

 

毎日楽しいことをしてやっかいな物事におさらばした。

 

 

今ではスッキリとした気持ちで満足した暮らしを送れていると言う。

 

 

 

 

 

わたしは自分とは逆の生き方をしている印象を受けた。

 

 

 

 

 

 

どちらの見方が得か損か、

 

 

正解か不正解か

 

 

そんなことを考えてはいない。

 

 

 


 

人が世の中をみる目には多様性があり

 

 

他者と同じ目になることは出来ない。




 

わたしたちは皆それぞれが違う目を持って生まれてきている。

 

 

生きている限り環境や周囲の影響によって見方も変化する。

 

 

それぞれが異なった目を持っているからこそ面白くなる。

 

  

世界には生きている人の分だけ違う目がある。

 

 

そのことを理解していれば

 

 

どこでどんな暮らしをしても気楽に生きてゆけるだろう。

 


大切なのは自分の目を信じられるかどうかだ。

 

 

それが出来ないのが唯一悲しい生き方だと思う。