礼拝後、
洗礼準備会を行った。
二十年近く教会に来られている老翁兄が、
数週間前に、はじめて、洗礼に向かっての一歩を踏み出したからだ。
その方は、
一人の人としては、十分に責任を果たし、立派に人生を生き抜いて来られていて、
それが、逆に、決心を鈍らせていたのかもしれない。
礼拝にも忠実に出てきて下さっていたものの、
3か月コースの聖書の学びの中でも、
「イエス様は好きだけど、旧約聖書は作り話としか思えず、仏教の方が私にはあっている。
天国があるとするなら、私は外の門番で十分だ。」と言って憚らなかった。
ところが、
数週間前の礼拝後、
「私はすこし近づきました。」
と、自ら言ってこられたのだ。
驚いたのは私の方だった。
「少しであっても、中間なんてないので、
その一歩はすでに神様の敷地内に踏み込んでしまわれたということです」
「でも、罪をもっていては、はじき出されますから、まず、罪が赦されるところから、一歩づつ進めて参りましょう」とお勧めをしたところ、
すんなりと罪を認められて、、、、
今日の洗礼準備会においては、
「これだけ生きてきたのですから、
全部の罪を悔い改めるには、かなりの時間がいると思いますが、、」
と、仰られ、私の方が内心、もう、驚くばかりでした。
ほんの数週間前まで、
罪について、どころが、わが家系を、、、仏教が、、、と言ったことしか話されなかった方が、
少し、目を潤わせて、神様の前に罪の重荷を下ろそうとされている。
ご聖霊が働かれると、ホントに人は変わるのだ、、、、
言葉を失う、、、
福音の凄さに圧倒される。
🍴
アパートに帰り、食事を済まると、
次に予定していた家庭礼拝の迎えが来られた。
玄関をあがると、
96歳の老翁姉がきれいに身支度して待ち受けていてくださった。
席につくと、
私は昨晩眠れなかったせいか、
少し、瞼が重たく感じられたものが、
放蕩息子の話で盛り上がり、
テーブルを囲んだ三人は、
神様の愛のすばらしさに感動し、ひれ伏した。
み言葉の朗読、頌栄、祝祷、小さな礼拝は祝された。
あれほど重たかった目が、
再び、パチリと開いたのは、
礼拝後頂いたコーヒーの為だけではない、
疲れを忘れてしまったのだ。
けれど、
アパートに帰ると、
再び目は重くなり、
座っていても、
半分身体は眠っているようだった。
何時に眠ったかも覚えていない。
目が覚めると3時過ぎ、、、
目覚めがとても、心地よい、、、
さっきから、生あくびの連続、、
それもまた疲れが抜けて」ゆくように思えてくる。
山頂から流れ来る空気はなんと心地良いことだろう。。。。

