昨夜寝たのは深夜1時を過ぎていたのですが、朝5時に目覚めました。
 
【朝食】
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朝食は、昨夜食べた果物の残りと、ホテルが用意してくれたパンとコーヒーです。
 
【ホテルの窓からの風景】
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運河に面したホテル4階の部屋からの風景を撮っておきました。
 
【タイの国鉄事情】
7時にホテルを出て、隣接する果物市場の中を通り、最寄りのYommaratという国鉄駅に向かいます。
駅に着いたら電車がすでについていました。しかしホームがありません。ホームは片側にしかなかったのです。乗客がホームのない方から線路に降りていたので、こちらもホームのない側から乗車しました。電車は5分程、止まったままでした。駅のそばに大きな交差点があり、電車の線路と道路は立体交差になっていないので、電車は信号待ちをしていたようです。
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乗り込んだ電車は、寝台列車だったようです。上段のベッドは上がっていましたが、通路に梯子がたくさん並んでいました。
信号が変わって電車は動き出しましたが、少し走っただけで、終点のファランポーン駅手前で、また停まってしまいました。理由はわかりません。15分も停まっていたので、何人かの乗客たちは勝手に電車を降りて、線路を歩き始めました。
「僅か2km先のファランポーン駅までなのだから、5分で着くだろう」 と思っていた電車は、実に25分もかかって漸くファランポーン駅に辿り着きました。早めにホテルを出ていたのでそれほど慌てませんでしたが、タイの国鉄事情のひどさは、最終日の最後の最後まで、徹底的に一貫していました。
タイの国鉄を見る限り、タイの経済発展は、30年前から完全に停止している感じです。
 
【ファランポーン駅】
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ファランポーン駅の構造は、西欧のそれを模したものであることが一目瞭然です。
8時ちょうどに、国家らしき音楽が流れ、タイ人は職員も乗客も全員起立し、駅構内中央に掲げられているプミポン国王の写真に向かって立っていました。これをしないと、「不敬罪で逮捕」 されるのかもしれません。
【国王崇拝】
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ファランポーン駅構内に、仏像はあっても、切符の自販機はありませんでした。昔ながらの人員販売です。手荷物預かりも昔ながらの人員扱いで、コインロッカーはありませんでした。
 
【アユタヤ行き急行電車】
ファランポーン駅発8:20の急行電車は、1等から3等まであります。3等は冷房がありません。チケットを買う時、3等と言わなかったので、係員は勝手に2等の乗車券を用意しました。1時間20分の電車賃が2等で245B(900円)ですから、日本人からすれば高くはありませんが、タイの庶民からすればベラボーな高額です。3等車の料金は分かりませんでしたが、おそらく50B程度だと思います。
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出発するまでの間、ホームで電車の車体清掃が行われていました。あまりにもレトロな清掃用具にビックリです。
車内販売のお弁当は、近所のオジチャンやオバチャンが家で作ったものを持ってきて売っているという感じです。僅かに20B(70円)でしたから、2つ買って食べてみました。袋入りのタレは、スッパ辛い味で、全てのお弁当についているようです。
 
【民族意識】
隣に座っていたマレー系らしき家族のお母さんが、「おじさんにニーハオって言いなさい」と小さな女の子に言ったので、「アイ アム ノット チャイナ、バット コン・ジープン(日本人)」と言いました。すると周辺の乗客たちの雰囲気が和らいだのを明らかに感じたのです。このことから、中国系以外のタイ人は、タイ経済の実質的支配者である中国系の人々を恐れているのだな ということが良く分かりました。
【タイ経済の推進者】

 

【車内放送なし】

タイの国鉄では、切符の検札係員が巡回しているだけで、停車するそれぞれの駅に係員はいなかったようです。
車内放送は一切ないので、乗っていた電車のアユタヤ到着が30分も遅れた理由は全く分かりませんでしたし、遅れていたこと自体が分からないわけですから、自分が降りるべき駅は、到着予定時刻をあてにすることなく、自分で確認しなければなりません。
 
アユタヤトゥクトゥク観光
天気が抜群に良かったので、電車が遅延したことを気にすることもなく観光開始です。
電車から降りてきた客は、トゥクトゥク運転手たちの奪い合いに晒されます。
オジサンが最初に言っていた値段は、「5時間で1600B」というものでした。「こちらが1000B」 と言うと、「1200B」 に下がりました。再度 「1000B」 というと、観光客用に作られていたカラーコピーのファイルを見せてきました。そこには「5時間、1200B」 と書かれていました。なので、1200Bで了承したのですが、タイの貨幣価値からすれば、1000Bでも十分なはずです。ヤワな日本人観光客は、1600Bというボッタクリ価格で了承してしまうのかもしれません。
アユタヤを観光する場合、トゥクトゥク観光が最善でしょう。レンタサイクルもありますが暑すぎるので若者でもきついはずです。また、アユタヤのトゥクトゥクは6~8人乗りなので、グループで乗って割り勘すれば、むしろ割安で観光できることになります。

日本出発前に、アユタヤに行ったら周るべき12カ所の場所とその順番を示した1枚のマップを作っておいたので、それをトゥクトゥク運転手のオニイチャンに渡しました。

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この日、乗ったのは緑色のトゥクトゥクです。

最初の目的地に着く前、道路の中心に古そうな仏塔がありました。

 
【1:ワット・ヤイ・チャイモンコン】 入場料:20B。
最初に、アユタヤ駅から最も近いお寺に行きました。
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黄色い布で囲まれた高い仏塔が、このお寺のシンボルのようです。
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お母さんに下で待っててもらい、仏塔の上に昇ってみました。仏塔の内部には8体の瞑想仏が中心に向かって丸く並んでいました。
《説明》 寺院の正面は東を向き、約183.8×130.8メートルの周壁が方形に囲んでいる。
1351年にアユタヤ王朝を創設した王ウートーン(ラーマーティボーディー1世)により建立された。その後、1587年にアユタヤの独立を回復したナレースワンが、勝利を記念して仏塔(チェーディー)を奉納した。その仏塔の1基は、プラ・チェーディー・チャイ・モンコン(Phra Chedi Chai Mongkon、「吉祥なる勝利の仏塔」の意)と呼ばれた。現在の寺院の名称はそれに由来する。
 
【2:ワット・パナンチューン】 入場料:10B?
この寺院の写真は、翌日無くしてしまったカメラで撮っていたので、ありません。
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残っているのは、入場券だけ。ザンネン。
《説明》 仏教寺院。アユタヤの都が正式に創設されるおよそ26年前の1324年に建てられたこの寺院は、その地域の初期の集落に一部関連があったものと考えられる。特にそこには中国の宋朝時代より200人を超える難民集団がいたといわれる。
寺院のうち最も高い建物である大きな礼拝堂 (wihan) には、1334年からの高さ19メートルとなる巨大な金色の仏坐像が納められている。この崇高な仏像は、タイ人からは「ルワンポートー」、中国系タイ人には「サムパオコーン」と呼ばれる。この仏像は船乗りの守護仏とみなされている。また、伝承によると1767年、ビルマによるアユタヤの破滅の前に「聖なる目から臍まで涙が流れた」という。
 
【3:日本人村】 入場料:100B ( ⇐ アユタヤの観光地では最高額)
ここも、無くしてしまったカメラで撮っていたので、写真はありません。入場券とパンフレットのみ。
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建物を入ると、すぐ右手の部屋で、パンフレットに書かれている内容の動画が上映されています。しっかり冷房が効いているので、涼みながら居られるメリットもありますね。
《説明》 16世紀初め、御朱印船貿易に携わった日本人たちが築き、最盛期には2000~3000人以上もの日本人が住んでいました。日本人の多くは、アユタヤの傭兵としてビルマ軍との戦いにも参戦。日本人町の町長、山田長政は22代ソンタム王から官位を与えられるほど大活躍しましたが、1630年に憤死。日本の鎖国で18世紀初めにはこの街も消滅、敷地内には石碑や2007年に日タイ修交120周年記念館が設立され、友好の歴史を知ることができます。
朱印船貿易により、貿易面においてもアユタヤ日本人町は多くの発展を遂げた。17世紀初頭におけるアユタヤの武器の多くはむしろ国内生産の刀よりも日本製のものが多かったとも言われる。日本はその豊富な銀を背景にアユタヤから陶器、皮革製品(主にシカ、サメなど)、キンマ塗りなどを買った。特に皮革製品のタイから日本への輸入量はずば抜けており、江戸初期のアユタヤから日本への皮革製品の数は20万枚以上にも昇った。
 
【4:ワット・プッタイサワン】 
ここも、無くしてしまったカメラで撮っていたので、写真はありません。ここは入場券もなかったので、何もありません。
クメール様式の白いトウモロコシ型の塔堂が中心の遺跡で、この時は、塔堂を囲む四角い建物(瞑想仏が並んでいた)が改修工事中でした。
《説明》 アユタヤ島外の南側に建つ寺院。アユタヤ朝初代ウートーン王は、島内で都を構えるまで、ここを宮殿として3年間暮らしていましたが、即位後、ここを修復して寺院名を現在の「ワット・プッタイサワン」に改名したと伝えられます。寺院のシンボルである白くてトウモロコシ形の塔堂=プラーンは、アユタヤ初期に建てられたクメール様式のものですが、1898年に現在の姿に改築。その正面には、ウートーン王の神像が祀られています。境内の西側には、僧侶が住む「僧域」がありますが、その一角には船底を模した2階建ての建物があり、ここはアユタヤ後期の歴代王や市民らに広く尊敬された高僧のソムデット・プラプッタ・コーサーチャーンが住んだ場所でした。また、寺院周辺には華僑、イスラム教徒、キリスト教徒のポルトガル人、ベトナム人など様々な民族・宗教の集落がありました。現在も近所にイスラム教徒の人々がたくさん暮らしています。
 
【5:ワット・チャイ・ワッタナーラーム】 入場料:50B
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アユタヤ駅からは最も遠い所にある遺跡ですが、前回、旅行会社のツアーでアユタヤに来ていながら、ここが観光から外されていたことに憮然としてしまう程、アユタヤの中では一番綺麗な寺院遺跡でした。
仏像の頭部は、戦争で負けて全部取られてしまいました。資料も残っていないので復元できないようです。
 
ここで、この美しい遺跡の全景を背景に、タイの民族衣装を着た若者と一緒に撮っ写真があったのですが、それもなくしたカメラで撮っていたので、ありません。最高に残念です。
《説明》 1630年、第24代王・プラサートトーンが亡くなった母を偲んでチャオプラヤー川の西側に建設した寺院。
建築様式はカンボジアのアンコール・ワットに似ていることから、カンボジアとの戦争に勝利を収めたことを記念して建てたとの説もあります。寺院の四角い境内の中央には35メートルの主塔が聳え立ち、四方に4基の塔堂(プラーン)を従えて、その回りには回廊が取り巻く、というアンコール・ワット様式のうえ、八方には須弥山(しゅみせん)を表現する塔も設けられています。また、建立の1630年からアユタヤ王朝の滅亡まで、王の法事を執り行う王室寺院でもありました。ここも他の寺院と同様1767年のビルマ軍によって焼かれ、廃寺と化しましたが、1987年になって改修され、現在ではアユタヤでもっとも美しい寺院遺跡のひとつとなっています。夕暮れのスポットとしてもよく知られています。
 
【6:ワット・ローカヤスターラーム】 入場料:ナシ
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横たわった大きな涅槃仏があるだけの遺跡です。右は、この日、昼食時間なしで5時間つきあってくれたトゥクトゥクのオニイチャン。
ここには、車椅子のお母さんを助けてくれた、いかにも貧しそうなオバちゃんがいたのですが、その目的は小さな象の彫像を買ってもらうためでした。あまりにも長いこと手の中で握りしめられていた様子の念が籠った美しくない彫像だったので、買うのを拒否したら、オバチャンの態度は掌を返すように豹変しました。
見返りを求めての善意って、最悪です。仮に、このような偽善によって施しを得ることができたとしても、人の心の実相は、完全に神仏に見抜かれています。
この時、「貧しきものに、食を乞う」というブッダの教えを思い出していました。貧しき者は、施すことをしてこなかったからこそ、今現在貧しいのです。貧しき者を救済するには、無償の心で他者に施す機会を与えるしかないのです。しかしカルマの理法を知らない貧しき者たちは、施すどころか貪るばかりです。このおばちゃんは、いつになったら 「貧しきものに、食を乞う」 というブッダの教えを理解することができるようになるのでしょうか。遺跡となってしまったアユタヤの地は、それ以前に人々の心の中でカルマの理法が滅んでいたはずです。タイ国にそれが復活することを数々の寺院遺跡において祈念しても、その気配はあまりにも希薄であることを、このオバちゃんを通じて観たような気がしていました。
《説明》 建設は後期アユタヤ王朝中期で、67.5メートル四方の基壇の跡が残り、当時は周壁内に本堂のほか多くの仏教施設があった。アユタヤ王朝陥落時(1767年)に大部分がビルマ軍の破壊に遭い、現在は、1956年に復元された  Phra Buddha Sai Yat という涅槃仏が残る。 涅槃仏は北方を頭に西を向いて寝ており、全長は37メートル、高さは8メートル。その構築は、煉瓦で形を積み上げた後に漆喰で固めたものである。
 
【7:ワット・ナープラメーン】 入場料:ナシ
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破壊されずに残った遺跡の一部が、本堂の中に置かれていました。
《説明》 仏教寺院。島の北側を流れるムアン運河を挟んだ対岸に位置する。13世紀に建立。ビルマ軍との戦いで破壊されずに残った寺院の一つ。ラーマ3世の時代に修復。アユタヤ最大級の本堂に、王の正装をまとった高さ5メートルの黄金の仏像が安置されている。
 
 
【8:ワット・プラシーサンペット】 入場料:50B
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この寺院は、三角屋根の新しい大きな寺院と、3つの塔がメインの遺跡です。
《説明》 アユタヤ王宮内にあった最も重要な寺院で、バンコク王朝におけるエメラルド寺院のような存在。トライローカナート王時代の1448年に建立され、以降はここで宮中儀式が執り行われてきました。
仏塔の東側に本堂が後に建立され、高さ16メートル重さ171キロの、純金に覆われた立仏像が置かれていました。この仏像が寺院名にもなった「プラ・シーサンペット」といいます。名称は御吉祥活仏寺院程度の意味である。
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アユタヤ歴史公園内の寺院遺跡の共通入場券(上掲)は、みなこの3つの塔が並ぶ写真が用いられています。
《説明》 この寺院に建つお寺は、歴代のアユタヤ王朝の王の内3人の遺骨が修められているが、アユタヤの王が仏と同一視されたのでこの名前がある。ラーマーティボーディー2世(1491 - 29年)と、父であるトライローカナート王、兄であるボーロマラーチャーティラート3世の遺骨がそれぞれ納められた。
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この寺院の付近には、栗鼠さんが何匹もいました。
 
【9:ワット・プララーム】 入場料:50B? 
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外観しか見なかったので入場料は不明ですが、「アユタヤ歴史公園」内の入場券は、5、8、10、11などで同じものが使われていたので、ここもおそらく50Bでしょう。
《説明》 この複合寺院は、ラーメースワン(在位1369-1370年〈後・1388-1395年〉)により創建された。
ワット・プララームは、アユタヤの主要な寺院と同じく東を向いている。中央塔堂は、トウモロコシにも似た形をしており、いくつかの層はアンテフィクサやガルーダで装飾されている。中央基壇は南北におよんでおり、ここにはかつて2基の小さな塔堂があったが、今日では基壇壁のみが残存する。中央基壇の四隅には4基の大きな仏塔があり、基壇の端には約40基の小さな仏塔の遺構が並ぶ。4基の角の仏塔にはさまざまな姿の仏像で装飾されたレリーフが部分的に保存されている。
 
【10:ワット・プラ・マハタート】 入場料:50B
アユタヤに来た観光客で、ここに来ない人はいないはずです。
観光する前にゲート前で、マンゴーとバナナのジュースを2杯80Bで買って飲みました。5時間の間、昼食抜きで観光していたので流石にガス欠状態だったのですが、冷たすぎてしかも量が多すぎてタイムロスしてしまった感じです。
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根に挟まれた仏像の顔は、破壊されたアユタヤ王朝の悲しみを象徴するものとしてパンフレットに必ず掲載されているでしょう。
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ここは、広大な敷地にいくつもの遺跡が点在しています。完全な形状を遺すものは一つとしてなく、傾きかけた遺跡が数多くありました。
《説明》 1369年~70年の2代ラーメスアン王が建てたという説と、1370~88年の3代ボロムラーチャー1世が建てたという説がある13世紀の重要な寺院の一つです。かつては塔の頂上が黄金に輝いていたこの寺院もビルマ軍の侵略により廃墟と化し、今は木の根の間に埋め込まれた仏像の頭や、頭部がない仏像、崩れ落ちたレンガの壁や礼拝堂の土台が残るのみとなっています。1956年の修復の際、塔の跡から数々の黄金仏や宝飾品などが発見され、これらは現在チャオ・サン・プラヤー国立博物館に展示されています。
寺院の建築は、中央にロッブリー様式の大きな仏塔があり、その回りを小さな仏塔が囲み、その回りを回廊が囲んでおり、礼拝堂と仏堂が東西にあったと推測されている。
 
【11:ワット・ラーチャブラーナ】 入場料:50B
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数年前に新たに復元された遺跡です。周辺の芝生は、スプリンクラーで潅水されていたので、緑が遺跡の美しさを際立たせていました。ここでは、塔の上に昇って、高い所からアユタヤの景色を動画で撮ったのですが、そのカメラをなくしてしまいました。残っていたのはこの1枚のみ。
《説明》 王子どおしが王座をめぐり争い、その結果争った二人とも死んでしまった。その王子達の為に建てられたお寺です。
 
【アユタヤ・オールド・メモリーズ(2001)】
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【1:ワット・ヤイ・チャイモンコン】 【8:ワット・プラシーサンペット】 【10:ワット・プラ・マハタート】
 
【アユタヤからバンコクへ】 
復路は、ロットゥーという、ワゴン車のような乗り合いバスでバンコクへ帰ります。料金は一人60B。車椅子の分を含めて3人分180Bで帰ってきました。往路の電車の一人分より安い値段です。
ロットゥーに時刻表はありません。満員になったら出発します。
バンコクのスカイトレインのモーチット駅まで行きます。90分ほどで着きました。
 
【スカイトレイン駅の切符自販機】
スカイトレインの駅の自販機には、日本同様、お札が使えておつりが出てくる自販機もありましたが、お札が使えず、しかもおつりが出てこない自販機もありました。そんな場合は、駅員のところで切符を買えるのかと思いきや、混んでいる場合以外は、両替してくれただけでした。日本人とすると、この中途半端なサービスには、ちょっと引きます。
 
【センセーブ運河】
スカイトレインでラーチャテーウィー駅まで行き、ここから少し歩いて、バンコク市内を東西に流れるセンセーブ運河を運行する船に乗ります。
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この船に専用の昇降場所はありません。全体が昇降場所です。船が完全停止することはないので、乗客たちは、好きなところから、飛び降り、飛び乗りしていました。日本のような安全第一主義で運行していたら時間がかかってしまうでしょう。このような原初的な交通状況を見るたびに、貢一は「これで充分だろう」と思います。
 
プラトゥーナムで乗り継ぎ下船した時、赤ちゃんを胸に抱いた女性が、「最も混む通勤時間帯で危険だから、他の交通機関を使えば」と車椅子のお母さんを心配して話しかけてきたのですが、「エクスピーリエンス イズ ヴァイタル(経験が重要)」と答えました。それでも止めるよう言っていたので、「ドンーント ディスターブ(邪魔しないで)」と言ってしまいました。赤ちゃんを抱いたお母さんは、ショックを受けた様子で行ってしまいました。せめて、「プリーズ」 くらいは付けるべきだったとは思ったものの、後の祭りです。
ライフジャケットを身につけた料金徴収の係員は、船が混雑してくると、船の周辺にある15cm程の幅の板の上を、周回しながら料金を徴収していました。しかも、この危険な仕事、男性係員だけではありませんでした! ラッシュの時間帯だったからでしょう、男女二人の係員が、横に張られたロープを命綱に、船の縁を飛び回っていました。
乗って料金を払う時に、「イタル・タイ・タワー」と行先を告げていたので、その係員のお兄ちゃんが、お母さんが船を降りるのを手伝ってくれました。狭い運河なので横波が船を激しく横揺れさせます。50cm程の上下動の中、車椅子を先に桟橋に投げ揚げ、お母さんを抱きあげたところを、係員のお兄ちゃんが引っ張り上げてくれました。
周辺の乗客たちは呆れ顔で見ていましたが、貢一は 「いい経験ができたじゃん」 と大満足でした。
船に乗ったのは、今夜見る予定の 「NANTA Bangkok Theatre」 が、その方向にあったからです。路線バスもあり、そのほうが早かったのですが、いろんな経験するために手作りの旅をしているのですから、少々の遠回りでもそんなのは屁の河童です。
 
【街角風景】
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ナンタ劇場に向かう途中の狭い道路の様子です。特別な風景ではありませんが、三角形のゲート以外は、いかにも東南アジア文化圏という感じの風景です。
 
【ナンタ・バンンコク・劇場】
はやばやホテルに帰るより、観劇でもした方がと思いつつ、ここに来てみました。
先に当日券(1100B:ポップコーン付き)を買ってから、夕食を食べに行きました。同じ建物内に大きなスーパーがあり、その中に3つほどのフードコートがありました。ひとり60Bも出せば、好きなものを食べることができます。
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ナンタは韓国の劇団が上演しています。
昨夜観たカリプソは、上映中の撮影OKでしたが、ナンタは撮影NGでした。
どちらも、観客の入りは50%程度だったようです。
観客のメインは中国人団体客だったようです。

ナンタは、レストランの厨房を舞台にした「テンポのいい喜劇」です。

「ナンタの観劇を推奨するか?」と訊かれたら、「肯定も否定もしない」と答えるでしょう。カリプソ1200B(4500円),ナンタ1100B(4000円)ですが、どちらも料金に値する内容だったとは思いません。どちらも、旅行業者とタッグして団体観光客相手にバーゲン価格で生き延びるしかないように思います。
 
【ホテルへ】
ここからは、乗り換えなしの路線バス1本でホテルに帰ることができます。ところが、昨夜、香草たっぷりラーメンを食べた屋台前のバス停で、「ここが終点」と言われてしまいました。10時を過ぎていたからなのか分かりませんが、まあ、しかたがありません。
この日も、屋台で焼き串3種類と果物4種類を買って帰り、ホテルの部屋で食べて、おネンネです。