お母さんは、3月12日から4日間、韓国南部の大邱・慶州・釜山を巡る旅に行ってきました。
出発の飛行機が午前便なので、山梨からでは前日に出ないとまにあいません。なので、じゃらんで予約しておいた成田駅前のホテルに前泊することにして、成田山新勝寺を観光することにしました。
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甲府~新宿~日暮里で乗り継ぎ、京成成田で降り、宿泊予約してあるホテルに荷物を預け、ホテルから徒歩20分ほどのところにある成田山新勝寺に行ってみました。
 
【成田山新勝寺】
参道はたいそう賑わっていました。日曜日だったからでしょうか。
空港そばの大きなお寺なので、外国人観光客が半分ほどいたようです。
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参道を進んでゆくと、総門の前に出ます。そこを潜って階段を上ると仁王門があります。
 
成田山新勝寺のHPには、以下のように書かれています。
朱雀天皇から平将門の乱平定の平和祈願の密勅を受けた寛朝大僧正は、弘法大師が敬刻開眼した不動明王を捧持して京の都を出発。大坂から船に乗り、房総半島の尾垂ヶ浜に上陸しました。
940年、寛朝大僧正は、成田の地に御尊像を奉安し、御護摩を焚いて乱の21日間戦乱が鎮まるようにと祈願します。祈願最後の日、平将門が敗北して関東の地に再び平和が訪れます。
寛朝大僧正が都へ帰ろうとしたところ、御尊像が磐石のごとく動かず、この地に留まるよう告げます。ここに成田山新勝寺が開山されたのです。
寛朝大僧正は、宇多天皇の孫にあたります。916(延喜16)年に敦実親王の二男として生まれ、11歳の時に出家されました。仁和寺・東寺・西寺・東大寺の別当を歴任され、高野山の座主にまでなった方で、986(寛和2)年に行基菩薩・慈恵大師良源上人に次いで日本で3人目の、真言宗では初の大僧正になられました。
成田山は真言宗智山派の寺院です。成田山では弘法大師が中国より伝来された真言密教の教えにより、千年以上、御護摩祈祷を続けています。
歌舞伎役者の市川團十郎丈が成田不動に帰依し成田屋の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったこともあいまって、成田不動は庶民の信仰を集めました。現代においても、十二代目市川團十郎丈や市川海老蔵丈が成田山の不動明王に深く帰依し、昔と変わらず成田屋の屋号を名乗って、伝統芸能である歌舞伎の技を守り続けています。
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三重塔の周りには氷の彫刻が置かれていましたが、たいそう暖かい日だったので、かなり溶けかかっていて繊細な彫刻の腕は確認しようもありませんでした。
本堂の中央には大きな護摩壇があり、不動明王の真言が掲載されていました。天井が煤けていましたから度々護摩法要が行われている何よりの証拠です。大本堂でひとしきりお祈りしてから、釈迦堂に進みました。
その時、サイレンが鳴り響きました。この日は3月11日。7年前、東日本大震災が起こった日です。午後2時50分ごろ、境内に放送が流れ、参拝者全員がそれぞれの場所で立ち止まって、黙祷していました。
その後、額堂、光明堂、医王殿、平和大塔を巡ってきました。
新勝寺は、車椅子の人でも参拝できるようにエレベーターが3つもありました。高齢の参拝者を大切にしていることがよく分かります。
 
参道を戻り、ホテルに入りました。
ゆっくりお休みです。