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細木信宏の良い映画を観よう!

フィルムスクール卒業後、テレビ東京の番組「モーニングサテライト」のニューヨーク支局を経て、アメリカ国内枠で数々の映画を取材し、シネマトゥデイ 、映画.com、リアルサウンドに寄稿。自身の英語の映画サイト、https://cinemadailyus.comも立ち上げた。

映画『ドライブ・マイ・カー』がゴールデン・グローブ賞を獲得し、全米の大都市(ボストン、ニューヨーク、ロサンゼルスなど)の批評家賞も収め、オスカーの前哨戦で素晴らしい成績を収めているので、今日は昨年行った濱口竜介監督との単独インタビューの記事を紹介します。

 

こちらは、わたしの映画サイトです。

 

 
 

 

 

 

 

Q : 作家の村上春樹さんの作品を映画化するのは、なかなか難しいと言われていますが、今作は彼の短編作品ではありますが、どういった経緯で映像化されたのでしょうか?

 

濱口:村上春樹さんの小説が映画化しづらいというのは、すごく映画業界の中でも通説になっていて、(村上さんは)長編はやって欲しくないと思っているらしいけれど、短編だったらやっても良いと思っているらしいということが、最近の映画界でこれもまた通説になっていたんです。

 

Q : ちょっと前に、村上春樹さんの小説「納屋を焼く」も映画『バーニング 劇場版』で映画化されましたね。

 

濱口:日本映画でも『ハナレイ・ベイ』という作品も村上春樹さんの短編です。短編だったら、まだ映画化の許可が降りやすいという状況なのはわかっていたので、そんな時に映画『寝ても覚めても』のプロデューサーだった山本晃久さんが、村上春樹さんの大ファンで、彼が僕と村上さんのストーリーが合うのではないかと思ってくれて、その時は「ドライブ・マイ・カー」ではないのですけれど、『この短編を映画化しませんか?』と言われて、ただやっぱり基本的に村上さんの小説って、映像化が難しいと普通に思うんです。それは、現実と非現実を行き来したり、翻訳調の要素があったりするからです。ただ、「ドライブ・マイ・カー」は自分が前に読んでいて、自分がこれまでやってきた要素、車の中での会話とか、あとは演じるテーマであったりとか、自分がアプローチするとっかかりがすごくあったので、これだったらできると思いますと山本晃久さんに再提案して、進んでいったという感じです。

 

Q : 村上さんの許可を得たわけですが、今作は原作とは違うと聞いているんですけれど、どういった部分を脚本家の大江さんと話し合って、脚色を進めていったのでしょうか?

 

濱口:一番最初に許可を取る時点で、村上さんと頻繁にやりとりはできないことは予想できたので、映画内でやるべきことは、その時点である程度、話をつけておかなければいけないと思っていたので、こういう風に変えたいと思っているとか、こういう風に進めたいと思っていることは、かなり明瞭にしておかなければいけないと思ってました。ただ、「ドライブ・マイ・カー」は短編集「女のいない男たち」に収録されているのですが、「ドライブ・マイ・カー」だけでは、長編を作る上で要素が足りない。

 

「女のいない男たち」は、まさに女のいない男たちという共通した要素を扱っているということは、村上春樹さんが前書きで書かれていたので、「シェエラザード」と「木野」という小説からモチーフを持ってきています。「シェラザード」は、セックスをした後に女性が物語を語り始めるという要素が書かれてあって、そこには空き巣に入る女子高生の話なんかも書かれているんですが、ただ、家福の妻は「ドライブ・マイ・カー」の原作には、ほとんど書かれていないんです。

 

そこで、こちら(映画)の人物を立体的にするために、この要素(「シェラザード」)を持ってきています。もう一つの「木野」という小説で、これは家福と同様に妻に浮気をされている状況なんですけれど、この人物が辿る着く精神的な境地が、そのまま家福が映画のラストで辿り着く境地になっていて、これが家福の向かう先なんだぁということを思えたので、その要素を「ドライブ・マイ・カー」の未来みたいなところに置いています。もう一つは「ワーニャ伯父さん」ですね。ある人物がどういう仕事をしているのかというのは、すごく重要なので、家福は映画では演出家として、どういう仕事をしているのか具体的に示さなければいけないなぁと思った時に、この「ワーニャ伯父さん」が原作に書き込まれていたので、読み返していると、家福の心情としてすごく読めてきたんです。

 

一度、自分の人生を失ってしまった人物みたいなところがあるので、一人称にはできない映画の中では、家福の感情を想像させるうえで、有効だなぁと思ったので、それを全部コンバインしてます。この時点では、自分とプロデューサーの山本さんだけで作業していたのですが、実際に脚本化するにあたって具体的にセリフを細かく書き込んでいく過程で、脚本家の大江さんに入ってもらいました。大江さんに入ってもらった理由は、彼は演劇に精通していて、自分はその演劇の経験がないので、演劇のリアリティというものを大江さんにアドバイスをしてもらいながら書きました。

 

Q : 妻の音(おと)が亡くなるのが前半部分にありますが、家福が脚本の読み合わせを妻が読んだ脚本の音源をレコーダーに残していて、それが映画全体では彼女がまるでまだ存在しているような形で描かれているが、あれは原作に書かれていたものなのか?それとも、濱口さんの発想でやったものなのか?

 

濱口:原作では、家福が車のカセットテープに「ワーニャ伯父さん」を吹き込んでいて、それでセリフを練習しているという要素は書いてあるんですけれど、妻の声とは書いていないです。ただ、映画だと一人称的な表現も難しいし、あまり時世を行ったきたりさせたり、特にフラッシュバックは説明的になるので、そうではなくて、過去がすごく影響していることを直接的に表現するには、これが妻の声だったら直接的に表現できるし、彼がまだ過去に囚われているし、車という空間から出たくないと思っている表現にもなるなぁと思って、それを付け加えています。

 

Q : 原作では家福は俳優ですが、今作では演出家にしたのは、映画化するうえで、役柄の広がりがあると感じたからなのでしょうか?

 

濱口:それは、あったと思います。一人の俳優であるよりも、家福の存在を演出家にした方が役柄を大きくできるし、高槻との関係性が原作だと、急にバーに行って話し、そこで妻の思い出話をするだけの関係性で、映画だとバーだけで話をするのは、そんなに面白くないんです。そこで、映画ではバーの部分を最小限にして、もっと動きのある関係性というか、単純にこの二人が一緒にいなければいけない状況があると良いなということを思っていました。そうすると、家福が演出家出会って、高槻が俳優としてやってくるという関係性にした方が、感情的な動きももちろんですが、そしてそれが演出なのか、あるいはある種の復讐なのかというのも観客の興味になると思ったんです。

 

Q: 今作で使われた車は、サーブ900という車種ですが、この車のこだわりは何かあるのでしょうか?

 

濱口:サーブ900に関しては、一応、原作に書かれているのですが、ただ原作では黄色のコンバーチブルなんですね。ただ、オープンカーだと、騒音(ノイズ)の問題がすごくあって、車のレコーダーの脚本の読み合わせをするという車が重要な映画で、シンクロする音が使えないのは致命的なので、オープンカーは難しいと判断しました。あとは、黄色という色も日本的には、ちょっと派手すぎるのと、日本の風景にはあまり調和しないところがあると思いました。それと緑と似ているので、少し埋もれやすいですね。だから赤のほうが際立ってくるということで、サーブ900の赤にしました。

 

Q : 車内での撮影は、イランのアッバス・キアロスタミの作品を彷彿させるのですが、車内の撮影でいろいろ工夫されたこともあったのでしょうか?

 

濱口:「ドライブ・マイ・カー」を映画化しようという時に、まさにキアロスタミみたいな映画が撮れるかもしれないと思いました。キアロスタミの映画の中でも特に『Ten(邦題「10話」)』や『桜桃の味』という映画がそうですけれど、車で移動して話して映画自体が作られていて、車の移動が人生の象徴みたいなものに見えるわけですよね。会話をしていくと、人間の関係性が変わっていて、ある目的地に辿り着くみたいなことが、そのまま人生を凝縮したような時間にも感じられるので、それは頭にありました。キアロスタミから学んだこととしては、実際にちゃんと道を走らせるということですね。その合成ではなくて、実際のリアルな道を走らせることで、映り込む偶然があるので、それは映像として捕まえなくてはいけないと思いました。

 

Q: 映画内で家福は、舞台の脚本の読み合わせでは、俳優たちにあまり感情を入れないで読ませたりするんですけれど、その演出は濱口さん自身もそういう風に脚本の読み合わせでしているのか?

 

濱口:そうですね。家福がやっている方法と自分がやっている方法が全く同じということではないですけれど、ただ基本的にまず無感情で読ませるというのは、そもそも持っている想定を捨ててもらうということはあると思います。想定を持って演じられると、相手を演じるというよりかは、自分のイメージを演じるということになるので、相手と総合反応しているという要素は弱くなるんですよね。これをできるだけ捨てて、相手との総合反応で演技をできたら、実際にその場で起きている反応というものが、どんどん入り込んでくるので、これは(俳優たちが)入り込むようにそういうことをしています。

 

Q: 多言語を映画内の舞台劇に取り入れたのは、今作を海外の映画祭に出展する上で、近年のアメリカのダイバーシティ(多様性)などを含め、意識していた部分もあったのでしょうか?

 

濱口:多様性ということをそこまで考えていたというよりかは、シンプルに演技をすることがどういうものかということを考えています。それは、今言ったように相手に対して反応するということが、どうすれば様になるのか、それは言葉の意味という手がかりを無くしてしまうことが一つの方法じゃないかということを思っていて、相手のボディ・ランゲージとか、相手の声や音に対して頼るしかなくなっていくというか、相手をちゃんと見たり、聞いたりしないと、自分の反応ができなくなるという状況に俳優を置くことによって、かえってシンプルに反応し合うような、ある種リアリズムのような演技はその方が可能になるんじゃないかぁと思いました。

 

Q: 近年、多くの海外の映画祭に出展され、海外の作品なども見てきて、今、日本の映画界に足りないものは何でしょうか?

 

濱口:これは、安く作ってしまうということですかね。要するに、日本は安く良いものを作るということに美徳を見出すことが、どのジャンルにもあると思うんですけれど、実際それができてしまうのですが、スタッフ全員が安く良いものを作ろうという熱意を持ってやることによって、やっぱり給料全体が低く抑えられたり、下がり続けてしまうということが、あるわけです。それは、他の国から見たら、そんなお金で作れるはずないじゃないかというような予算で映画をずっと作り続けているというところがあって、それを根本的にやめない限り、日本の映画が、常に世界の水準に達するということは難しいと思います。