【く】


・薬指【くすりゆび】

25ページの第6条でそれを禁止されると
耳元に小さく空いた穴や首元に小さく光るイニシャルのそれぞれは
いつだってその幼い誇りの象徴に変わったのだと思う。
それはただひたすらに憧れるほど甘美な秘め事で
大人の真似をして飾ってはわざとらしく隠して焦らしてみせた。
とりわけ薬指の付け根に巻き付けられた絆創膏は
その特別な意味が背中を押して
傷の完治する放課後をいつも待ち遠しくさせた。

あの頃、絆創膏の下にあったのは燃えて悶えるような愛ではなくて
小鳥が木の実をついばむような清らかな愛だったと思う。
それでも左手の軽い僕らがどうしても薬指にこだわったのは、
やっぱり僕らが大人の真似をしたがったからだった。

今朝の登校検査は体育科の先生と学年主任だから厳重、
左側の列の先生なら甘いから大丈夫、
いつもより手前で登校検査してるから注意して。

こんなメールがねずみ算式に拡散して手元に辿り着くと、
慌てて薬局やコンビニへと踵を返すのが常だった。
この平和な危機は、大人が失っていった子供特有の窮屈さゆえ。
仮病は僕らが困った時の常套手段で
中学や高校生になっても絆創膏一つで隠し通そうと云うのだから
大人ぶってみたところで、なるほど子供だったと頷ける。
巧く躱せたねと僕らが手を打って居たのはやたらにむず痒く、
巧く騙されてみせる大人の懐が甘酸っぱくて有り難い。
世間知らずでウブな僕らにも愛を認めてくれて居たに違いない。
耳元の飾りを没収して、栗毛色の髪を指摘しても
こと薬指に関してとりわけ寛大だったのは
やはりその指に飾られた特別な意味が関係して居たのだと思う。

外国人講師が「ring finger」と云い表したので、
何か洒落た云い回しなのかと疑ってみたら
それは字引にも載って居る列記とした薬指の英単語で、
無垢な僕らは「本当にそんな意味の指なんだ」と思いを強くした。

ある放課後、恋い焦がれる先輩の薬指に光るものがあって、
その悲しい合図に気付いた時から
5本の指の中で最も動かすのが難しいと云われる薬指は、
字のごとく最も難しい指だ、と忌々しかった。
告げることなく溶けていく思いは、放課後の夕闇を更に濃くする。
放課後の信号が青に変わっても進むのを躊躇ってしまう程で
大きなアルタートケースと画材をぶら下げたまま
友達と二人、ドーナツ屋とハンバーガー屋をハシゴしたりした。
大幅な遅刻をしてアトリエに辿り着くと講師には散々叱られて
それでも鉛筆を握ると
余計なことを考えなくて済むような気がして少し楽だった。

帰り支度の途中、右端の水道で手に付いた絵の具を洗い流しながら
シンクの中で涙の代わりに流れていく水を見送った。
あの時の水の冷たさが今でも鮮明に思い出せる。
左側の列の湯の出る水道を選んで居たならどうだったろう。


長くない思いを勝手に終わらせる独りよがりも若さ。

高校生の恋愛の殆どは薬指の約束もただの通例儀式で
拘束力の威力たるや生徒手帳のそれにも及ばない。
先輩の左手も気付けばいつしか軽くなって居て、
それでも僕はその件にはなんとなく触れられず
用務員室に屯しては他愛もない話をするのが精一杯だった。
日本の大学には行かず留学して勉強するのだと聞いて、
また少し遠くなると思った。

卒業式には事務室前に生けられて居たチューリップを
一本勝手にむしり取って手渡した。
自分から呼び止めておきながら、
もうあと少しで破堤しそうな面持ちを堪えるのが精一杯で
「おめでとう」も「ありがとう」も伝えられそうになかった。
あれほどに深呼吸を繰り返しながら言葉を押し出した経験はない。

「ずっと好きでした、留学先でも頑張って」

本当にきちんと云えたかは少し怪しいけれど、
先輩はまっすぐと僕を見て
「ありがとう、また会おうね」と云った。

喉の奥で声を潰して、何度も込み上げて来る音を潰して
ただただ泣き続けた。
在校生男子の涙とは思えない程だったと思う。

実らない思いをずるずると引きずるのもまた若さ。
どうやら僕はこのタイプで
昔からよく諦めが悪いねと云われたものだった。


この前、同級生の一人が串揚げ屋を始めたと聞きつけて
高校時代の同級生10数人が集まった。
隣に座った当時の僕の思いを知る友人の一人がふと云った。

先輩、近々結婚するんだって。2次会行こうよ。

あれから10年以上が経って居て
もう今なら心から祝福出来るはずなのに少し複雑な心境で、
「行きたいけど、行かない、なんか、行けない」と返答した。
もっとも先輩からお誘いを頂戴した訳でもないから
「行きたい」も「行かない」も「行けない」にしても、
おこがましい感覚ではあるのだけれど、
どちらにしても薬指の約束が本当になるのかと思うと
16の頃の僕がまた悲しむような気がして
また会うその時は、その日じゃない方が良いかな、と思った。

誰と約束した訳でもない
小鳥が木の実をついばむような清らかな愛が
絆創膏も貼れない胸の芯の部分でずきずきと痛む気がした。







と云う訳で、タナカです。
毎度のことながら物凄くご無沙汰になってしまいましたが、
皆様いかがお過ごしでしょうか。
先月25日で僕は27歳になってしまいました。
なんとなく
この年齢って数字の切りも良くないし、
特に節目とも捉え難い年齢なんですけど、
毎年、節目の年になると良いなと心から思います。

ちなみに、誕生日を迎えた瞬間、
一番最初にメールをよこしてくれたのが
なんとあの岩永君だったのが初笑い。
彼がまさか一番だとは思って居なかったもので。
皆様からのメッセージやコメントも本当にありがたく読みました。
早々にお礼をお伝えしたかったのですが、
語録をもってしての更新にしようと思って居たら
すっかり日があいてしまいました。
この期に及んで云い訳をする27歳。
いと情けなし。すみません。


さて。
今回は高校時代のエピソードでした。
高校時代の背伸びを文章で語って居ると
まだ少し恥ずかしいところもあったりして照れます。
僕もまだまだ大人になってからの日が浅いんだなぁ
なんて思うこともしばしばだったりして。
思うに、これって
当時の手帳を開いてみた時の
「後半30ページくらいがまるまるプリクラ帳になって居て
懐かしい反面、ああ、たまに恥ずかしい私服姿が」みたいな
あの感覚に近いかもしれません。

普段の小学生時代のエピソードと比べて
高校時代の方が記憶が鮮明な分、美化しづらいと云うか。
まあ十年一昔、なんて云ったりもしますし、
世に連れて自分自身も昔のことなんだ、と諦めて
そろそろね、慣れて来ると良いんですけど。
やっぱ照れます。


10年前。
皆さんは何をして居た時期でしょう。
当時17歳の僕は
この時期だとちょうど仕事を始める少し前くらい。

髪の色や髪型を変えては校則と格闘して居た頃で、
大人になれば黒スプレーを使ったりしなくても済むのに、だとか
洋服欲しいとかカラオケ行きたいとか
もう本当にそんなことばかり考えて居て、
渋谷とか原宿とか新宿とか何か楽しいことがありそうな場所を
ふらふら歩いては満足して居た時期です。
…なんか、今もあまり変わって居ないような気も。

アトリエに通って絵の勉強をして居ても
何をデッサンしてもろくな出来映えにならなくて、
着彩しても塗りムラだらけだし、
はみ出して修正の痕だらけだし、
画家の名前も殆ど忘れてしまったし。
…なんか、やっぱりあまり変わって居ないような。


10年前を振り返ると、
十年一昔だからねー、と割り切って笑い飛ばすには
親には申し訳ない部分もありますが、
あの頃始めた仕事を今も続けていくことで
それがいつか恩返しに繋がると信じるばかりです。


なんかうまくまとまらない感じではありますが、
僕はこれから親戚に頂戴した採り立ての筍を
グツグツと煮込んで小一時間ほど灰汁と格闘して参ります。
ではでは。
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