そう云えば、先月の中頃だろうか。


「christmas carol」公演初日も翌週に差し迫り、
稽古もいよいよ大詰めの新月の夜の真ん中に
僕は、建物の屋上に上がり込んで、じっと黙って空を眺めて居た。

冬の入り口を入って少し。
道路脇に時折強く吹く夜風が
身体の芯までじっくりひんやり凍てつかせる。
そこから十数メートル上空にまで離れてしまうと
巻き付けたマフラーも旗のように棚引いて、風は鋭く吹き荒ぶ。



その晩。
僕は寒さで潤んで来る瞳や
感覚の失われて堅くなる頬に堪えながら、
ただただ冷えて高い好天の暗闇を見つめて居た。

ある人は、粒つぶイチゴみたい、と云った。
ある人は、空に針で穴をあけたみたい、と云った。
僕は、首が痛くなるのも忘れて、ただ見上げて居た。


その瞬間。
一瞬、ただ一瞬だけ
細い線が月の照らない夜空の闇をかすめとった。
続けて1本。
更に掠めてもう1本。

ふたご座流星群の観測に最適な状態が整って居ます、と
気象予報士がテレビで云って居た通り、
黒を消す白い線は幾本も引かれた。

幾本も幾本も引かれたとて、
刹那的にただ白い線が生まれて消えるだけ。
それだけなのだ。
それだけなのが、
儚くて、なんてロマンティックなんだろう、と思う。



あの、
目に見たときの、驚きに包まれた一瞬の喜びは不思議だ。
誰か横の人に伝えたくて、矢も楯もたまらなくなる。
あの感覚は兎角、童心に近い、と思う。


流れ星を初めて見た時は、
プラネタリウムで知ったそれが本当に見られるなどと
思っても居なかったから、ひどく興奮した。
なんだか奇跡に出会ったかのような気さえした。
夢中で矢継ぎ早に報告しても運転中の母は、
特に気にも留めず「良かったね」としか云わなかったから、
大人はそんなものなのか、と思って居たけれど、

今25歳の僕はあの頃のままなので
どうやら大人は、と云うより、
母が、そうだっただけのだと思う。



そう云えば、流星群はある時期を境に
何故だか急にやたらとやって来るようになった。
しし座とかふたご座とか
何年に一回周期の珍しいものが何種類もあって
それがランダムに頻繁にやって来て居るように思う。

流れ星を見てみたいと云う小さな頃の切望も
今ではもうおなかいっぱい叶って居て
あのときに感じて居た奇跡も、世間的には珍しくなくなった。
夜道を歩きつつ不意に空を見上げたら
期せずしてその日だった、なんてこともある。


願い事を3回唱える隙もないまま引かれて消える線が
大人になると沢山見られるかも、
と当時の僕に伝えたらタナカ少年はどう反応するだろう。

タイムマシンなんて夢のまた夢だけれど、
ある日急に、未来の自分の孫が訪ねてくるかもしれない。
25歳の僕もきっとタナカ少年みたいになるかもしれない。


といつになくメルヘンなタナカドリルなのでした。