教育実習の先生が去って暫く経ち、
皆の手元に寸評付きの作文が返却され渡り切ったその時、
ロクセン(仮称)がふいに口を開いた。
 「君達の作文は本当に良く書けて居ました。
  けれど、ただ。

  中には教育実習の先生の授業中、
  私が教室の後ろに立って居たのを『監視して居る』
  と思って居た子も居るようだけれど、それは勘違いです。」
ロクセンの鋭い眼光は僕を捉えて離さなかった。
他の生徒は気付いて居なかったかもしれないけれど、
ロクセンは僕の目を見てそう云った。


僕の手元の作文には
 「…先生の授業は分かりやすくて面白くて大好きでした。
  ロクセンがいつも教室の後ろで監視していたけれど」
と云う一文が在って、それを云って居るのだと直ぐに分かった。

作文でいつも褒められて居た僕は、
大好きなロクセンから得意分野で怒られたのだ、
と気まずくて暫くの間ロクセンとは目を合わせられなかった。




その当時僕は、
 「ロクセンは僕を怒って居るのだろう」
と思って居たけれど、違う。多分違う。違った。


ロクセンは真に傷付いて居たのだ。
子供とでも真剣に語らおうとする人だったのだ。
真面目でナイーブだからこそ、怪我を負った。

子供が言葉の選び方を誤っただけなのであり、
悪意が在った訳もないのだけれど、
僕の『監視』と云う言葉を真剣に言葉の通り受け止めた。



言葉は予測も付かないところに勝手に飛んで行って、
ふいに人を傷付けたりする。
子供が大人に宛てた言葉でもそう云う事はまま在るのだろう。



必ず終わりが来ると分かって居るものの中で
巧くやるコツはなんだろうか。

ロクセンは
「2年後には必ず別れが来る」40人と真剣に向き合い、
その2年を全うした最後に「思い出すなよ」と強く云った。

その数週間後には
新しい「2年後には必ず別れが来る」40人と
真剣に向かい合わなければならない。
2年後にはまた「思い出すなよ」
と自分に云い聞かせるようにして教壇から呟いたのだろうか。

真剣でナイーブな人ほど、傷付いてばかりだ。



ベテランのロクセンは、
別れをも昇華させて、思い出さないように鍵掛けて次に進む
と云う選択を取ることで、
必ず終わりが来るものの中で
巧くやって来たし、巧くやって居るのだと思う。


僕は幼稚園や小学生の頃の事を何度も何度も
思い出して振り返り、道を確認しながらでないと進めない。
溜まらずセンチメンタルになって物憂げになったりもする。
それでも思い出の中の甘い香りをよく知って好んで居る。


ロクセンの勧めなかったやり方の一つ。
蜜を吸い尽くしたツツジの花弁の甘さを思い起こしては懐かしむ、
そんなやり方は非生産的ではある。

だから、
必ずしも巧くやるコツだとは思わないけれど、僕の性にあって居るようだ。


今年もロクセンから届いた年賀状を手に取って
「間違えてる訳ではありません、よね?」
と問うてみた。