人は死んだらどうなるのか。
昔から、多くの人がこの問いを考えてきました。魂が残るのか。どこか別の世界へ行くのか。生まれ変わるのか。それとも、身体をつくっていたものが別の形に変わるだけなのか。
けれど、私は最近、もっと単純に考えるようになりました。
人は死んだら、無になる。
今の私には、そう考えるのが一番自然に思えます。
もちろん、これは誰かに押しつけたい結論ではありません。死後の世界を信じる人もいるでしょう。魂の存在を信じる人もいるでしょう。それによって救われる人もいると思います。
ただ、私自身は、死後に何かが残ると考えるよりも、私としての意識は、死とともに終わると考える方が、今はしっくりくるのです。
死後の説明は、本当に「私」を救うのか
人が死んでも、何かが残ると言われることがあります。
魂が残る。記憶がどこかへ行く。元素が循環する。エネルギーは消えない。そういう説明を聞くと、少し安心できる人もいるかもしれません。
けれど、私はそこに少し違和感があります。
たとえ身体をつくっていたものがどこかに残ったとしても、それは本当に「私」なのでしょうか。
私の記憶。私の声。私の考え方。私の好き嫌い。私の後悔。私の喜び。私が誰かを大切に思った気持ち。
それらが失われるなら、身体の材料がどこかに残っても、それはもう私ではありません。
私が知りたいのは、物質が残るかどうかではありません。
「私としての意識」が残るのかどうかです。
そして、その意識が残ると考える確かな根拠を、私はまだ見つけられていません。
人間の理屈は、どこまで信じられるのか
私は科学を否定したいわけではありません。むしろ、科学は大切です。病気を治すのも、自然を知るのも、便利な生活を支えているのも、科学の力です。
しかし、科学もまた、人間の脳がつくり出した理解の方法です。
誰も、地球の最後を経験したことはありません。誰も、太陽の最後を見届けたことはありません。誰も、死後の世界から戻ってきて、万人が納得する形で証明したわけでもありません。
それでも人間は、理論をつくります。説明をつくります。未来を予測します。そして、いつの間にか、その説明を真実のように扱い始めます。
昔、人間は太陽や星が地球の周りを回っていると考えていました。今から見れば違っていたと分かります。でも、その時代の人にとっては、それが自然な理解だったのでしょう。
だとすれば、今の私たちが「正しい」と思っている理屈も、未来から見れば違っているかもしれません。
科学を捨てる必要はありません。
ただし、科学を絶対の神のように扱う必要もないと思うのです。
人間は、分からないものに耐えることが苦手です。だから、死にも意味をつける。宇宙にも理屈をつける。人生にも物語をつける。
でも、それらの多くは、無の上に一時的に置かれた、人間の仮説なのかもしれません。
意味は、最初から宇宙に書かれていない
私は、人間の誕生そのものに、最初から意味があるとは思っていません。
生まれたから、必ず何かの使命がある。苦しむことにも、必ず意味がある。死にも、必ず意味がある。
そう考えると救われることもあります。けれど、私はそこにも少し無理を感じます。
人は生まれる。生きる。老いる。病む。死ぬ。
そこに、宇宙から与えられた特別な意味が最初から刻まれているとは、私には思えないのです。
意味とは、たぶん外から与えられるものではありません。
意味とは、生きている人間の脳がつくり出す、仮の方向性です。
仕事に意味を置く人がいます。家族に意味を置く人がいます。趣味に意味を置く人がいます。信念に意味を置く人がいます。お金、名誉、愛情、創作、健康、学び、遊び。人はそれぞれ、何かに意味を置きながら生きています。
でも、その意味は宇宙の真理ではありません。
それは、人生というゲームを進めるために、自分で置いた方向です。
人生はゲームなのかもしれない
私は最近、人生はゲームのようなものかもしれないと思うようになりました。
もちろん、軽い意味で言っているのではありません。
人生は、とても不公平です。生まれる家も、時代も、身体も、才能も、環境も、自分では選べません。最初からよいカードを持っている人もいれば、かなり厳しいカードを配られる人もいます。
病気になる人もいる。貧しさに苦しむ人もいる。孤独に耐えている人もいる。家族の問題を抱える人もいる。どうにもならない現実の中で、必死に生きている人もいます。
だから、「人生はゲームだから楽しめばいい」と簡単に言うつもりはありません。
それでも、宇宙が最初から意味を与えてくれないのなら、私たちは自分の手元にあるカードで、何とか意味を置いて生きるしかありません。
その意味で、人生はゲームに似ています。
ゲームには目的があります。ルールがあります。進む方向があります。勝ち負けもあります。
けれど、それはゲームの中で成り立つ意味です。
人生も同じなのかもしれません。
出世すること。お金を稼ぐこと。誰かに認められること。家族を守ること。好きなことを続けること。文章を書くこと。朝の散歩をすること。植物を育てること。誰かにやさしい言葉をかけること。
それらは、宇宙全体から見れば大きな意味はないのかもしれません。
でも、今この人生ゲームを生きている私にとっては、十分に意味があります。
すべては無。だから、深刻になりすぎなくていい
人は死にます。
私の悩みも、怒りも、嫉妬も、後悔も、いつか消えます。成功も、失敗も、肩書きも、財産も、人からの評価も、最後には消えます。
大切にしている記憶も、いつかは消えるでしょう。
だとすれば、結局、人や事象はすべて無なのだと思います。
すべては無。
この言葉だけを見ると、とても冷たく聞こえるかもしれません。
でも、私はそこに絶望だけを見ているわけではありません。
むしろ、無だからこそ、もっと軽くなってもいいのではないかと思うのです。
人からどう見られるかに、人生全部を奪われなくていい。過去の失敗を、いつまでも握りしめなくていい。勝ち負けにこだわりすぎなくていい。解けない問いに、心のエネルギーを使い果たさなくていい。
死後のことを考えるのも、人間の最後を考えるのも、宇宙の行方を考えるのも、決して無駄ではありません。
でも、それに心を奪われすぎて、今日の一日を暗くしてしまうなら、少しもったいない気がします。
私が大切にしたい意味
私が今、大切にしたいのは、大きな意味ではありません。
宇宙的な使命でも、歴史に名を残すことでもありません。
朝、少し気分よく目覚めること。散歩をすること。好きな文章を書くこと。家族と話すこと。植物を眺めること。自分の心が少し静かになる時間を持つこと。
そういう小さなことに、私は意味を置きたいと思います。
意味は、最初からどこかにあるものではない。
自分で置くものです。
そして、自分で置いた意味だからこそ、変えてもいい。軽くしてもいい。今日に合う形に置き直してもいい。
若いころの意味と、年齢を重ねてからの意味は違います。元気な日の意味と、疲れている日の意味も違います。誰かと一緒にいる日の意味と、一人で静かにいる日の意味も違います。
それでいいのだと思います。
意味は真理ではなく、人生ゲームを進めるための方向性なのです。
無だからこそ、今を遊ぶ
もし、人は死んだら無になるのだとしたら。
もし、人生に最初から決められた意味などないのだとしたら。
それは、絶望だけではないと思います。
むしろ、私たちはもっと自由に、今日の意味を選べるのかもしれません。
誰かに勝つためではなく、自分の心が少し明るくなるために生きる。人から認められるためだけではなく、自分が納得できる一日をつくる。大きな正解を探すより、今日の小さな楽しみを見つける。
どうせ最後は無になる。
だからこそ、今ある時間を、あまり重くしすぎなくていい。
深刻になりすぎず、でも雑には生きない。
どうせ消えるからこそ、誰かに少しやさしくする。どうせ残らないからこそ、今日の景色を味わう。どうせ無になるからこそ、今の一手を面白く選ぶ。
私は、そんなふうに考えたいのです。
おわりに
人は死んだら無になる。
私には、そう考えるのが一番自然です。
人間の誕生にも、死にも、最初から決められた意味があるとは思いません。
意味は、宇宙に書かれているものではなく、生きている私たちが仮に置くものです。
だから、解けない死後の理屈に心を使い果たすより、今この人生ゲームをどう楽しむかを考えたい。
すべては無。
だからこそ、意味を重く背負いすぎなくていい。
意味は、見つけるものではなく、置くもの。
人生は、完全に解くものではなく、遊ぶもの。
どうせ最後は消えるのなら、消えるまでのあいだ、少しでも面白く、少しでもやさしく、少しでも自分らしく、この人生ゲームを楽しんでみたいと思うのです。