凡人だから覚れるブッダの教え

凡人だから覚れるブッダの教え

毎日が楽しくない、苦しい、悲しい、、、成功したい、生きがいがほしい、、、そんな悩みが解決できるブログです。ブッダの教えを知ると、誰でも幸せになることができます。人生に行き詰っていましたら、ぜひご覧になってください。

人は死んだらどうなるのか。

昔から、多くの人がこの問いを考えてきました。魂が残るのか。どこか別の世界へ行くのか。生まれ変わるのか。それとも、身体をつくっていたものが別の形に変わるだけなのか。

けれど、私は最近、もっと単純に考えるようになりました。

人は死んだら、無になる。

今の私には、そう考えるのが一番自然に思えます。

もちろん、これは誰かに押しつけたい結論ではありません。死後の世界を信じる人もいるでしょう。魂の存在を信じる人もいるでしょう。それによって救われる人もいると思います。

ただ、私自身は、死後に何かが残ると考えるよりも、私としての意識は、死とともに終わると考える方が、今はしっくりくるのです。

死後の説明は、本当に「私」を救うのか

人が死んでも、何かが残ると言われることがあります。

魂が残る。記憶がどこかへ行く。元素が循環する。エネルギーは消えない。そういう説明を聞くと、少し安心できる人もいるかもしれません。

けれど、私はそこに少し違和感があります。

たとえ身体をつくっていたものがどこかに残ったとしても、それは本当に「私」なのでしょうか。

私の記憶。私の声。私の考え方。私の好き嫌い。私の後悔。私の喜び。私が誰かを大切に思った気持ち。

それらが失われるなら、身体の材料がどこかに残っても、それはもう私ではありません。

私が知りたいのは、物質が残るかどうかではありません。

「私としての意識」が残るのかどうかです。

そして、その意識が残ると考える確かな根拠を、私はまだ見つけられていません。

人間の理屈は、どこまで信じられるのか

私は科学を否定したいわけではありません。むしろ、科学は大切です。病気を治すのも、自然を知るのも、便利な生活を支えているのも、科学の力です。

しかし、科学もまた、人間の脳がつくり出した理解の方法です。

誰も、地球の最後を経験したことはありません。誰も、太陽の最後を見届けたことはありません。誰も、死後の世界から戻ってきて、万人が納得する形で証明したわけでもありません。

それでも人間は、理論をつくります。説明をつくります。未来を予測します。そして、いつの間にか、その説明を真実のように扱い始めます。

昔、人間は太陽や星が地球の周りを回っていると考えていました。今から見れば違っていたと分かります。でも、その時代の人にとっては、それが自然な理解だったのでしょう。

だとすれば、今の私たちが「正しい」と思っている理屈も、未来から見れば違っているかもしれません。

科学を捨てる必要はありません。

ただし、科学を絶対の神のように扱う必要もないと思うのです。

人間は、分からないものに耐えることが苦手です。だから、死にも意味をつける。宇宙にも理屈をつける。人生にも物語をつける。

でも、それらの多くは、無の上に一時的に置かれた、人間の仮説なのかもしれません。

意味は、最初から宇宙に書かれていない

私は、人間の誕生そのものに、最初から意味があるとは思っていません。

生まれたから、必ず何かの使命がある。苦しむことにも、必ず意味がある。死にも、必ず意味がある。

そう考えると救われることもあります。けれど、私はそこにも少し無理を感じます。

人は生まれる。生きる。老いる。病む。死ぬ。

そこに、宇宙から与えられた特別な意味が最初から刻まれているとは、私には思えないのです。

意味とは、たぶん外から与えられるものではありません。

意味とは、生きている人間の脳がつくり出す、仮の方向性です。

仕事に意味を置く人がいます。家族に意味を置く人がいます。趣味に意味を置く人がいます。信念に意味を置く人がいます。お金、名誉、愛情、創作、健康、学び、遊び。人はそれぞれ、何かに意味を置きながら生きています。

でも、その意味は宇宙の真理ではありません。

それは、人生というゲームを進めるために、自分で置いた方向です。

人生はゲームなのかもしれない

私は最近、人生はゲームのようなものかもしれないと思うようになりました。

もちろん、軽い意味で言っているのではありません。

人生は、とても不公平です。生まれる家も、時代も、身体も、才能も、環境も、自分では選べません。最初からよいカードを持っている人もいれば、かなり厳しいカードを配られる人もいます。

病気になる人もいる。貧しさに苦しむ人もいる。孤独に耐えている人もいる。家族の問題を抱える人もいる。どうにもならない現実の中で、必死に生きている人もいます。

だから、「人生はゲームだから楽しめばいい」と簡単に言うつもりはありません。

それでも、宇宙が最初から意味を与えてくれないのなら、私たちは自分の手元にあるカードで、何とか意味を置いて生きるしかありません。

その意味で、人生はゲームに似ています。

ゲームには目的があります。ルールがあります。進む方向があります。勝ち負けもあります。

けれど、それはゲームの中で成り立つ意味です。

人生も同じなのかもしれません。

出世すること。お金を稼ぐこと。誰かに認められること。家族を守ること。好きなことを続けること。文章を書くこと。朝の散歩をすること。植物を育てること。誰かにやさしい言葉をかけること。

それらは、宇宙全体から見れば大きな意味はないのかもしれません。

でも、今この人生ゲームを生きている私にとっては、十分に意味があります。

すべては無。だから、深刻になりすぎなくていい

人は死にます。

私の悩みも、怒りも、嫉妬も、後悔も、いつか消えます。成功も、失敗も、肩書きも、財産も、人からの評価も、最後には消えます。

大切にしている記憶も、いつかは消えるでしょう。

だとすれば、結局、人や事象はすべて無なのだと思います。

すべては無。

この言葉だけを見ると、とても冷たく聞こえるかもしれません。

でも、私はそこに絶望だけを見ているわけではありません。

むしろ、無だからこそ、もっと軽くなってもいいのではないかと思うのです。

人からどう見られるかに、人生全部を奪われなくていい。過去の失敗を、いつまでも握りしめなくていい。勝ち負けにこだわりすぎなくていい。解けない問いに、心のエネルギーを使い果たさなくていい。

死後のことを考えるのも、人間の最後を考えるのも、宇宙の行方を考えるのも、決して無駄ではありません。

でも、それに心を奪われすぎて、今日の一日を暗くしてしまうなら、少しもったいない気がします。

私が大切にしたい意味

私が今、大切にしたいのは、大きな意味ではありません。

宇宙的な使命でも、歴史に名を残すことでもありません。

朝、少し気分よく目覚めること。散歩をすること。好きな文章を書くこと。家族と話すこと。植物を眺めること。自分の心が少し静かになる時間を持つこと。

そういう小さなことに、私は意味を置きたいと思います。

意味は、最初からどこかにあるものではない。

自分で置くものです。

そして、自分で置いた意味だからこそ、変えてもいい。軽くしてもいい。今日に合う形に置き直してもいい。

若いころの意味と、年齢を重ねてからの意味は違います。元気な日の意味と、疲れている日の意味も違います。誰かと一緒にいる日の意味と、一人で静かにいる日の意味も違います。

それでいいのだと思います。

意味は真理ではなく、人生ゲームを進めるための方向性なのです。

無だからこそ、今を遊ぶ

もし、人は死んだら無になるのだとしたら。

もし、人生に最初から決められた意味などないのだとしたら。

それは、絶望だけではないと思います。

むしろ、私たちはもっと自由に、今日の意味を選べるのかもしれません。

誰かに勝つためではなく、自分の心が少し明るくなるために生きる。人から認められるためだけではなく、自分が納得できる一日をつくる。大きな正解を探すより、今日の小さな楽しみを見つける。

どうせ最後は無になる。

だからこそ、今ある時間を、あまり重くしすぎなくていい。

深刻になりすぎず、でも雑には生きない。

どうせ消えるからこそ、誰かに少しやさしくする。どうせ残らないからこそ、今日の景色を味わう。どうせ無になるからこそ、今の一手を面白く選ぶ。

私は、そんなふうに考えたいのです。

おわりに

人は死んだら無になる。

私には、そう考えるのが一番自然です。

人間の誕生にも、死にも、最初から決められた意味があるとは思いません。

意味は、宇宙に書かれているものではなく、生きている私たちが仮に置くものです。

だから、解けない死後の理屈に心を使い果たすより、今この人生ゲームをどう楽しむかを考えたい。

すべては無。

だからこそ、意味を重く背負いすぎなくていい。

意味は、見つけるものではなく、置くもの。

人生は、完全に解くものではなく、遊ぶもの。

どうせ最後は消えるのなら、消えるまでのあいだ、少しでも面白く、少しでもやさしく、少しでも自分らしく、この人生ゲームを楽しんでみたいと思うのです。