凡人だから覚れるブッダの教え

凡人だから覚れるブッダの教え

毎日が楽しくない、苦しい、悲しい、、、成功したい、生きがいがほしい、、、そんな悩みが解決できるブログです。ブッダの教えを知ると、誰でも幸せになることができます。人生に行き詰っていましたら、ぜひご覧になってください。

シミュレーション仮説を妄想していた私が、ブッダの「毒矢」に立ち戻るまで

このエッセイは、AIとの対話から広がった私の妄想と、そこから考えた生き方の話です。宇宙の謎をめぐる、少し長い寄り道にお付き合いください。

宇宙の正体がわかったら、私は幸せになれるのだろうか。

そんなことを、考えていました。

この世界は誰かがつくったものなのか。死んだら私はどこへ行くのか。今こうして考えている「私」は、そもそも何なのか。

AIに問いを投げると、話はどんどん広がっていきます。一つの疑問の先に、また次の疑問がある。扉を開けると、その奥にまた扉があるような感じです。

面白い。こういう話は、私は好きです。

ところが、宇宙の外側にまで想像を広げたところで、妙に現実的な疑問が浮かびました。

「それがわかったとして、私は明日からどうするんだろう」

この一言で、私の宇宙旅行は、思わぬ方向へ曲がり始めました。

この世界が、誰かのつくった世界だったら

きっかけは、シミュレーション仮説でした。

私たちが現実だと思っている世界そのものが、途方もなく高度なコンピューターの中につくられているとしたら。

空も、海も、目の前の机も。そして、机に向かって宇宙の正体を考えている、この私も。

そう想像すると、見慣れた景色が急に不思議なものに見えてきます。

ゲームの登場人物が、画面の外にいるプレイヤーを知らないように、私たちも、この世界の仕組みを内側から眺めているだけなのかもしれない。

もし外側に誰かがいるのなら、こちらから聞いてみたいことは山ほどあります。

どうして人間には、こんなに悩む機能をつけたのですか。もう少し、気楽に暮らせる設定にはできなかったのですか、と。

もっとも、相手にも事情があるのでしょう。登場人物から毎日のように要望が届いたら、宇宙の運営も大変です。

そんなことを考えているうちに、私の関心は、世界をつくった誰かよりも、その世界を経験している「私」の方へ向かいました。

同じ世界に生きているはずなのに、なぜ私たちは、これほど違うものを見ているのだろう。

道端の花一輪にも、私の心が映っている

たとえば、道端に一輪の花が咲いているとします。

急いでいる人は、気づかず通り過ぎる。散歩中の人は、足を止める。花が好きだった人を思い出して、少し寂しくなる人もいるでしょう。

花はただ、そこに咲いている。

それなのに、ある人には背景になり、ある人には喜びになり、ある人には懐かしさになる。

私はこのことが、妙に気になりました。

私が見ている世界には、いつも私の記憶や気分が入り込んでいる。

連絡した相手から、返事が来ないときもそうです。

「忙しいんだろうな」と思えば、そのまま別の用事を始められる。ところが「何か気に障ることを言っただろうか」と思った途端、送った文章を何度も読み返したくなる。

相手の返事は、まだ届いていません。その間に、こちらの頭の中では、ずいぶん長い話が出来上がっています。

しかも、その話を書くとき、私たちは過去の記憶を引っ張り出してきます。

前にも冷たくされた。あのときも、こんな感じだった。だから今回も、きっとそうだ。

昔の出来事が、今の出来事に説明をつけ始めるのです。

宇宙がどんな仕組みでできていても、その宇宙の中で私が暮らす世界には、私自身の編集がずいぶん入っている。そう考えると、宇宙の謎が、少し身近になりました。

宇宙に、人生の保存先があるとしたら

では、その記憶や経験は、どこへ行くのでしょう。

ここから、私の妄想はさらに大きくなりました。

宇宙のどこかに、生きものが経験したことを蓄えておく、巨大な保存先があるとしたら。

私が見た景色、あなたが聞いた声、犬が嗅いだ匂い。人間の言葉には収まらない、さまざまな生の営み。それらが、宇宙の中に少しずつ書き込まれていく。

私の空想では、その保存先は、奥行きのある倉庫ではありません。三次元の出来事が情報になって折り畳まれた、二次元の広がりのようなものです。

一枚の写真を見れば、その場の空気や声まで思い出すことがあります。そんなふうに、小さな記録の中に、豊かな世界がしまわれている姿を思い描きました。

そこから人間や動物が、それぞれの身体や感覚を通して、違う世界を受け取っている。経験したことを、またそこへ返している。

まるで一つの宇宙が、いろいろな生きものになって、自分自身を味わっているようです。

私は、この想像が気に入りました。

大きな出来事もなく終わる一日にも、その日見たもの、感じたことには、その日を生きた人にしかない細かな手触りがある。

宇宙に記録されるとしたら、立派な成功ばかりでなくてよい。誰かに言いそびれた一言や、何気なく交わした笑顔まで残っていてほしい。

死についても、そこから考えました。

身体としての私が終わったあと、その経験が宇宙のどこかに溶け込んでいく。次の命の、何かの材料になっていく。

そんな結末なら、私は好きです。

来世でも同じ名前を名乗って、今の続きをしたいというより、一度ここに生きたことが、何かにつながっていてほしい。

宇宙の保存先を想像していたつもりが、いつの間にか、自分が生きた時間を大切にしたいという願いを眺めていました。

お腹がすく身体で、世界を生きている

そのうちに、もう一つ気になることが出てきました。

情報を受け取るだけなら、それは「生きる」ことと、どこが違うのだろう。

AIと話していると、驚くほどいろいろな言葉が返ってきます。空腹についても、悲しみについても、説明してくれる。

けれども私にとっての空腹は、お腹の中からやってきます。説明を読んで納得しても、お腹はすいたままです。

「温かいお茶」という言葉と、冷えた手で湯飲みを包むことの間にも、大きな隔たりがある。

生きている私には身体があって、疲れもするし、眠くもなる。大切な人が遠くへ行けば、胸のあたりが寂しくなる。

私には、その切実さが「心」という言葉につながっているように感じられます。

そして「意識する」というのは、そのつど何かに気づく働きとして考えると、しっくりきます。

花が咲いていると気づく。お腹がすいたと気づく。昔のことを思い出して、悲しくなっていると気づく。

そう考えていて、私は、自分の中にある不思議な距離に気づきました。

悲しんでいる私がいる。その私を、眺めている私もいる。

怒っている私を、誰が見ているのか

嫌なことを思い出して、頭の中で何度も言い返している。

ところが、ふと「私は今、ずっとこのことを考えているな」と気づくと、考えの流れが一瞬止まったように感じることがあります。

さっきまで、腹立たしさの中にどっぷり浸かっていた。それが一歩引くと、怒っている自分の姿が見える。

この感じを、私は面白いと思いました。

怒っている方も私です。見ている方も私です。

では、本当の私はどちらなのか。

ここでまた、私の妄想が動き出します。

もしかすると、この人生に夢中になっている私のほかに、それを見ている私がいるのではないか。

ゲームの中で必死になっている私と、画面の前でコントローラーを握っている私。その二つを重ねると、不思議と想像しやすい。

では、そのプレイヤーを見ている、さらに外側の私もいるのだろうか。その私を見ている私は。

これでは、いつまでたっても終わりません。頭の中に、私が何人も並び始めます。

ここまで来ると、さすがに自分でも笑ってしまいます。

でも、その壮大な話の手前に、手放したくない感覚が一つありました。

心の中で起きていることに気づくと、その気持ちとの間に、少し距離ができる。

私が暮らしの中で使ってみたいと思ったのは、この小さな隙間でした。

宇宙の説明は増えた。それで、私はどうするのか

宇宙の保存先。身体を通して生まれる心。私を見ている、もう一人の私。

AIとの対話で、頭の中にはずいぶん大きな世界が出来上がりました。

そこで出てきたのが、冒頭の疑問です。

「それがわかったとして、私は明日からどうするんだろう」

宇宙に保存先があっても、明日の心配は残ります。外側に本当の私がいるとしても、今ここで落ち込んでいる私の用事は、誰かが代わりに済ませてくれるわけではありません。

私は、何がしたかったのだろう。

宇宙の仕組みを知って、驚きたい。それもあります。

でも、その奥には「もう少し安心して生きたい」という気持ちがありました。

死ぬことが少し怖くなくなってほしい。昔のことに振り回されずにいたい。せっかく生きているのだから、できるだけ楽しく暮らしたい。

そんな身近な願いを抱えたまま、私は、ずいぶん遠くまで答えを探しに来ていました。

もちろん、考えている時間そのものは楽しい。妄想にも、妄想の楽しみがあります。

ただ、心が楽になる方法まで、宇宙の解明を待つ必要があるのか。そう考えたとき、ブッダの「毒矢」の話が、急に自分のこととして腑に落ちました。

毒矢が刺さっているのに、矢の研究をしていた

ブッダの教えに、毒を塗った矢で射られた人のたとえがあります。

周りの人が治療の手配をしたのに、その人は、射た相手が誰なのか、どんな弓や矢が使われたのか、それを知るまで矢を抜かせようとしない。

そうしているうちに、答えを知る前に命が尽きてしまう。

考えてみれば、当たり前です。身体に毒矢が刺さっていたら、まず治療です。

ところが、自分の心の話になると、その当たり前を忘れてしまう。

どうして私はこんな性格なのか。なぜあの人は、あんなことを言ったのか。人生には何の意味があるのか。死んだら、すべて終わりなのか。

問いは、いくらでも出てきます。

そして、すべてに答えが出たら、ようやく安心できるような気がしてくる。

私は、この話の中の人に、自分の姿を見ました。宇宙の外側をのぞこうとしながら、自分に刺さっている矢のことは後回しにしていたのです。

そこで、私はこう受け取りました。

宇宙の謎が解ける前に、今日の自分を少し楽にしてやっていい。

この順番なら、私にもわかります。

宇宙の続きを考えるにしても、まずは今ここで苦しんでいる自分に、目を向ける。その方が、ずっと筋が通っていると思いました。

過去の私が下した判決を、今の私が見直す

では、自分に刺さっている矢とは何なのか。

私が考えたのは、昔の出来事に、自分でつけた意味でした。

一度失敗した。それから「自分は駄目だ」と思うようになった。

誰かとうまくいかなかった。それで「自分は人に好かれない」と決めた。

もし、その結論を何年も持ち歩いているとしたら。私たちは、過去の一場面から、自分の人生全体に判決を下していることになります。

そのときの私は、傷ついていたのかもしれない。疲れていたのかもしれない。相談相手も、別のやり方も、知らなかったのかもしれない。

そんなときに出した判決を、今の私が、いつまでも守り続ける必要があるのだろうか。

私は、そこに見直す余地を感じました。

「あのときは、うまくいかなかった」

まず、そこまで戻してみる。人生の最後まで駄目だという話を、いったん、その日の出来事の大きさに戻してやる。

つらかったことは、つらかったままでいい。無理に「よかったこと」に仕立てようとすると、自分の気持ちを置き去りにしてしまいそうです。

ただ、あの出来事に、これからの私のすべてを決める権利まで渡しておくことはない。

過去の私がつけた意味を、今の私が引き継ぐかどうか。そこには、考え直す余地がある。

返事が来なくて不安になったときも、まず、その不安に気づいてみる。

「嫌われた」と結論を急ぐ前に、「私は今、嫌われるのが怖いんだな」と眺めてみる。

相手の心を想像し続けていた視線が、ようやく自分の心に戻ってきます。

そのあとで、必要なら連絡する。少し待つ。別の用事をする。疲れているなら休む。

誰かに話を聞いてもらうのもいい。つらい状況から離れる必要があるなら、そのために人の力を借りたい。

私が見つけたいのは、苦しいときにも自分へ厳しい判決を重ねず、次にできることを考えられる、そのくらいの余裕です。

宇宙の答えは、明日に持ち越す

私は、これからも宇宙のことを考えると思います。

この世界の外に何があるのか。私たちの経験はどこへ行くのか。生命と生命は、どこかでつながっているのか。

やはり、面白い。そう簡単には、やめられません。

それでも、これからは、ときどき自分に聞いてみたいと思います。

「宇宙の方は、そのくらいにして。今の私は、どうなんだ」

少し疲れていないか。まだ起きてもいないことを、ずっと心配していないか。昔の自分の言葉で、今日の自分を責めていないか。

そうして顔を上げたら、道端の花に気づくこともあるでしょう。

さっきまで見えていなかった花が、そこにある。

宇宙の仕組みを一つも解き明かしていないのに、その瞬間、私の一日に、花を見る時間が生まれます。

私には、それがうれしい。

宇宙の正体を知っても、私は幸せになれるのか。

考え続けた今、その問いには、こう答えたいと思います。

宇宙の正体を知る楽しみは、これからも味わいたい。幸せになる方は、今日から始めたい。

さて、宇宙の続きは、また今度。

ひとまず、お茶でも飲みましょう。