凡人だから覚れるブッダの教え

凡人だから覚れるブッダの教え

毎日が楽しくない、苦しい、悲しい、、、成功したい、生きがいがほしい、、、そんな悩みが解決できるブログです。ブッダの教えを知ると、誰でも幸せになることができます。人生に行き詰っていましたら、ぜひご覧になってください。

ブッダの悟りと現代の理解

はじめに

現代の仏教に対する私の疑問は、「ブッダの悟り」が本当に理解されているのかということです。

 

法華経をはじめとする経典は、果たしてブッダの悟りを完全に伝えているのでしょうか。

 

多くの経典が方便や※化城といった概念を用いて、ブッダの教えを曖昧にしているように感じます。これは、ブッダの真の教えが誤解されていることを示しているかもしれません。

※化城とは:苦しい悪路を行く隊商の指導者が、途中で幻の城を現して部下たちに希望を抱かせさらに目的地への旅を続けさせるというたとえ。
小乗の悟りは真実の悟りへ導く方便であることを表す。

第一章:ブッダの悟りとは何か

宇宙の真理と「空」

ブッダが説いた「空」は、すべてのものに実体がないという教えです。これは、世界が常に変化し続けており、固定されたものは何もないことを示しています。生きている者には死後の世界は理解できず、これは別次元の世界なのです。

 

同様に、地球に住む私たちが銀河系の外を理解することができないのも当然であり、それは次元が違うからです。

 

3次元(プラス時間)の科学で、5次元以上の世界を観察することは不可能です。

ブッダの悟り

ブッダが現れる前も後にも、「ブッダの悟り」と同じ悟りを得た人は一人もいません。(悟りを開いた人の証拠は、一つも存在していません。)

 

悟りには段階があり、凡人でも覚ることはできますが、それは低レベルの悟りです。歴史上の高僧が「悟りを開いた!」と言っても、それは、ブッダが得た真の悟りではないのです。

 

悟りの段階:空海の説いた「十住心論」では、凡人の悟りからブッダ(金剛サッタ、自分自身の中の仏性)の悟りまでを10段階に解説している。宗派によっては、52段階に分けている教えもあります。

 

それらは全て、ブッダの悟りをイメージして、「悟った時には、ブッダもこのような状態だったのだろう。」と想像していたのです。ところが、ブッダの場合には、心に邪念はなく無心(そこに自我はない状態)だったのです。

 

これがブッダの悟りの核心であり、宇宙の真理の一端を示しています。

言語と感性の限界

さらに、現代の私たちは言語の発達によって五感力が減少し、感性よりも先に想像するようになっています。

 

ブッダの悟りを理解するためには、言葉を超えた直感的な理解が必要です。言葉は私たちの理解を限定し、固定化する傾向があるからです。

※直感を感じた時:心臓のドキドキする鼓動が聞こえる。横腹にビリビリと電気が流れる。エクスタシーの瞬間。

 

言葉(想像)で悟りが得られるのなら、言葉を自由に操るAIの方が人間よりも得意かもしれません。

 

したがって、「ブッダの真の悟り」得るためには、ブッダが行ったように、先ず自我をなくし、、空気中に溶け込む、そして自然に生きるという生き方を大切にしなければならないのです。

第二章:龍樹の「中論」とブッダの悟り

中論の視点

龍樹(ナーガールジュナ)が説いた「中論」には、ブッダの悟りに近いものがあると考えます。「中論」では、善悪、長短、左右上下、男女、早い遅いといった二元的な区別を超えて、すべてを包括的に見る視点が求められています。このような視点が、ブッダの悟りに近いものであると考えられています。

※龍樹は「空」を始めとする有名な著作が多くあり、代表的なブッダ思想の継承者です。それらの著作を翻訳したのが三蔵法師(鳩摩羅什)であり、その翻訳された経典が、現在の日本に伝えられたものです。

体験としての悟り

ブッダの悟りは、言葉を超越する意識として捉えるべきです真の悟りを言葉で説明することはできませんが、それを超えて体験することで初めて理解できるものです。

 

このように、空気中に溶け込み、自然に生きることを通じて、私たちは本当の意味での悟りに近づくことができるのです。

第三章:自然と調和する生き方

自然との一体感

ブッダの教えは、自然と調和し、一体となる生き方を促進します。これは、生命が偶然の産物であり、自然の一部として存在しているという理解を含んでいます。

 

私たちは生かされているのではなく(生きていることに意味はない)、ただ偶然生まれてきて、生きている。それが自分であるという考え方です。(そして、必然的に死を迎える)

 

蝉もカラスも、犬も猫も、ネズミも虎も、この自然界のルールに不満を言うものは誰もいません。それは、彼らが言葉を使って思考しないからです。(人間のように妄想しない)

偶然の存在としての自分

自我の概念を超えて、生命を偶然の存在として捉えることは、執着や苦しみから解放されるための方法です。

 

この理解により、私たちは自然な流れの中で生き、存在そのものを受け入れることができます。自然と一体となることで、私たちは真の自由を得ることができるのです。

結論

ブッダの悟りを再評価することで、私たちは現代における新たな視点を得ることができます。言葉を超えた理解を追求し、自然と一体となる生き方を考えることは、私たち自身を啓発する道となります。

 

現代社会の中で、私たちは言葉や概念にとらわれがちですが、真の悟りはその向こう側にあります。私たちは偶然の存在として生き、宇宙の一部であることを自覚することで、豊かで意味のある人生を送ることができるのです。

 

読者の皆さんも、ぜひこの視点を持ち、自らの生き方を見つめ直してみてください。それが、ブッダの悟りを理解するための第一歩となるでしょう。


このエッセイが、読者にとってブッダの悟りについての新たな洞察を提供し、日常の中での実践を促すものであることを願っています。