凡人だから覚れるブッダの教え

凡人だから覚れるブッダの教え

毎日が楽しくない、苦しい、悲しい、、、成功したい、生きがいがほしい、、、そんな悩みが解決できるブログです。ブッダの教えを知ると、誰でも幸せになることができます。人生に行き詰っていましたら、ぜひご覧になってください。

そもそも、世界を良くしたい心と、丸投げしたい心は同居している

朝、スマホが鳴る前に目が覚めた。
眠気の底から手だけが先に動いて、画面をなぞる。天気、予定、返信、買い物リスト。今日の段取りが、寝起きのわたしより先に整っていく。

便利だ。助かる。
なのに、胸のどこかが少しだけ乾いている。

 

「今日のわたしは、どこにいたんだろう」

 

そんな問いが、湯気の残る洗面所でふと立ち上がることがある。働いて、家のことをして、人に気を遣って、ちゃんと一日を回したはずなのに、主人公としての手触りが薄い。わたしは今日、行動したけれど、生きた感じがしない。そんな日がある。

たぶん、わたしたちの中には二つの本能が同居している。
一つは、自分が世界の主人公だと感じたい本能。自分の手で何かを変えたい、平和な方向へ押し出したいという衝動。


もう一つは、楽をしたい本能。できるだけ考えたくない、責任の重みから離れたい。誰かのしもべになってもいいから、今日はとにかく楽をしたいという切実さ。

この二つは、きれいに分かれて並んでいない。むしろ同じ心の中で、絡まり合っている。だからややこしい。だから面白い。そして、だから苦しい。


主人公になりたい心の正体

主人公になりたいという気持ちは、ただ目立ちたいとか、褒められたいだけではない。もっと深いところで、わたしは「創りたい」と思っている。
一日の終わりに、胸の中で小さくでもいいから「わたしがやった」と言えるものを残したい。誰かの顔が少しだけやわらぐ瞬間に立ち会いたい。世界が、ほんの少しでも良い方へ向かう手応えが欲しい。

 

たとえば、家族に対して。
疲れているのに、食卓の空気を整えたくなる。
仕事で。
面倒な調整を引き受けて、場を静かに救いたくなる。
SNSで。
誰かの乱暴な言葉に、耐えられなくなる。

 

この主人公の心は、誇りとも似ている。
誇りは、外から与えられるものではなく、内側で立ち上がる。「わたしはこうありたい」という小さな約束だ。

けれどこの誇りは、しばしば傷つく。
一生懸命やっても伝わらない。むしろ誤解される。
 

善意が踏みにじられる。
努力が当たり前の顔で消費される。

その瞬間、主人公の心は縮む。胸の奥が熱くなり、次の言葉が出なくなる。そして、もう一つの本能が顔を出す。


丸投げしたい心の正体

丸投げしたい気持ちは、怠けでは片づけられない。
それは、疲れの避難だ。

わたしたちの世界は、選択肢が多すぎる。
どの仕事を優先するか。どの情報を信じるか。どんな言葉で返すか。何を買うか。何をやめるか。
決めるだけで体力が削れていく。

 

だから「もういいや」と言いたくなる。
誰かが決めてくれたらいい。
指示された通りにやればいい。
間違っても、責められる矛先が自分だけに向かないようにしたい。

 

しもべになってもいいから楽をしたい。
この言葉は強いけれど、現実の心はもっと弱々しい。
ただ「しんどい」。それだけのこともある。

そしてここで、AIエージェントのような存在が魅力を持つ。
考える前に提案してくれる。
忘れる前に整えてくれる。
 

言葉にできない曖昧さを、それらしい文章にして返してくれる。

まるで「わたしの代わりに生きてくれる」みたいに見える瞬間すらある。


ぶつかる場所は、いつも日常

二つの本能は、理念の場ではなく、日常の泥の中で衝突する。

仕事の場で。
成果を出したい。評価されたい。主人公でいたい。
でも同時に、失敗が怖い。否定が怖い。責任が重い。できれば決めたくない。

家の中で。
守りたい。整えたい。平和にしたい。
でも同時に、放っておいてほしい。ひとりになりたい。もう何も考えたくない。

SNSで。
 

正しさで世界を良くしたい。誰かを救いたい。
でも同時に、叩かれたくない。炎上したくない。沈黙してやり過ごしたい。

この二つは、どちらかが正義でどちらかが悪ではない。
主人公だけを掲げると燃え尽きる。


丸投げだけで生きると空っぽになる。

だから人は揺れる。揺れた結果、時にみっともなくなる。
嫉妬もする。拗ねもする。言い訳もする。
わたしだって頑張ってるのに」という情けない声が胸の奥でうごめく。
その人間臭さを抱えたまま、わたしたちは今日も社会の中に立っている。


AIが、この矛盾を増幅する

AIエージェントは、主人公の心を助ける道具にもなり得る。
面倒な作業が減れば、本当に大事なことに力を使える。
調べ物や整理が早くなれば、人に向き合う余裕が生まれる。
時間が戻れば、創造ができる。

 

でも同時に、丸投げの本能を甘やかす道具にもなり得る。
提案が正確になるほど、わたしは自分で迷わなくなる。
文章が整うほど、わたしの言葉が出なくなる。
予定が最適化されるほど、わたしは「何を大切にしたいか」を考えなくなる。

 

ここで怖いのは、AIが悪いという話ではない。
むしろ、わたしの側の現実だ。

わたしは、楽をしたい。
そして、世界を良くしたい。
その両方を持っている。

だからAIが便利になるほど、わたしの矛盾がくっきり見えてくる。

 

たとえば、AIが「あなたは今週疲れているので休みましょう」と提案する。
その提案は優しい。けれど、どこかでわたしは反発する。
「わたしが決めたい」
「わたしの人生を、勝手にまとめないで」

反発した直後、また疲れが押し寄せる。
「でも、もう決めたくない」
「お願い、代わりにやって」

この往復の中に、わたしたちの本性がある。


そもそも、世界を良くしたい心と、丸投げしたい心は同居している

ここで言い切ってしまう。
そもそも、世界を良くしたい心と、丸投げしたい心は同居している。

世界を良くしたいという願いは、責任を引き受けたい願いでもある。
丸投げしたいという願いは、責任から逃げたい願いでもある。
この二つは、同じ心の別の顔だ。

そしてどちらも、根っこに「不安」がある。
不安は、未来が読めないことから生まれる。
不安は、ひとりで背負っている感じから生まれる。


だから人は、主人公になって世界を変えようとする。
同時に、しもべになって荷物を下ろそうとする。

ここまで来ると、わたしたちは自分を責めにくくなる。
揺れるのは弱さではない。
揺れるのは、生きている証拠でもある。


二つを敵にしない方法

では、どう生きるか。
答えは単純ではないけれど、方向は見える。

丸投げしたい心を悪者にしない。
主人公になりたい心を神様みたいに扱わない。

わたしは、楽をしていい。


ただし、全部を渡してしまうと、わたしの手触りが消える。
わたしは、世界を良くしたいと思っていい。
ただし、全部を背負うと、わたしが壊れる。

だから、生活の中で小さな設計をする。

任せていい領域をつくる。


単純作業、情報の整理、手続き、リマインド。
ここはAIに任せる。遠慮しない。

一方で、握る領域を残す。
価値観、誰を大切にするか、今日の一番の選択。
ここは、わたしが言葉にする。短くてもいい。

大事なのは、正解を握ることではない。
納得を握ることだ。


明日からできる小さな実装

難しい修行は要らない。
たとえば、これだけでいい。

今日、AIに任せたことを3つ書く。
そして最後に一行だけ、自分に問いかける。
本当は、わたしは何を大切にしたい?

その一行が、主人公の火種になる。


たとえ答えが出なくても、問いが残れば、わたしは消えない。

しんどい日は、任せる。
その代わり、任せたと自覚する。
自覚がある限り、わたしはしもべになり切らない。

逆に元気な日は、ひとつだけ自分で決める。
たとえば「今日は誰に優しくするか」を決める。
そういう小さな創造が、世界を良くする側の本能を満たす。


終章

わたしの中には主人公がいる。
同時に、しもべもいる。
どちらかを消すことはできないし、消す必要もない。

AIが進化していく時代、便利さはもっと増える。
でも、便利さが増えるほど、わたしは問い直すことになる。
「わたしは、どこまで任せたいのか」
わたしは、どこを自分で生きたいのか

その問いを持ち続ける限り、わたしは誰かの道具では終わらない。


世界を良くしたい心と、丸投げしたい心を抱えたまま、わたしは明日も生きる。
正解を追いかけるより、納得の手触りを残しながら。