刺さった棘を抜くように、問題が解決すると思っていないだろうか?

敢えて棘というメタファーを使うなら、それは皮膚の表面に刺さっているのではなく、内臓の奥深く埋め込まれて、しかもすでに組織と半ば一体化していて、取り除くことが不可能な状態になっているのだ。それを右にずらせば胃が痛み、左にずらせば腸が痛む。それならばと中間の位置に持ってくると結局両方が痛む。

他人の忠告など、棘を右にずらせ、いや左にずらせ、それでもだめならバランスをとって中間に置いておけ、などと言っているにすぎない。

例えば、仕事Aに15時間必要、仕事Bに12時間必要。同時並行は不可能。この条件で、AとBを合計20時間以内で終わらせなければならないとしよう。Aをきちんと終えたがBができなかったとき、「Aばかりやっているからだ。ちゃんと両方のバランスをとらないとダメだ。」と言われる。こんな感じ。

もともとどうバランスをとろうが物理的に不可能なことを、努力させられていないか?

棘を「抜く」ことを可能にするような「外部」など存在せず、ある場所から抜こうとすれば別の場所に今までより深く刺さるだけにすぎない。どっちにしても「どこかに刺さっている」のだから、どこにも刺さらないバランス点などありようもない。
「どうして苦しいの?」と問われて、一番最初に頭に浮かんだ「原因」を不用意に口にしてはいけない。その原因を取り除きさえすれば問題が解決すると思われてしまうから。原因は一つではないのだ。我々はいつも狂気の群れにさらされていて、一つの狂気を抑えたからといって、「種類の違う狂気」が代わりに浮上してくるだけなのだ。
何もすることが出来ない時には、無理矢理何かを習ったりするのも有効です。
大抵は半年ぐらいたつと「自分は何でこんなことをやってるんだろう」と思ってやめてしまうわけですが、それでも半年もてば御の字です。習ったことが身に付いてなくても、将来の役には全く立たなくても、飲み会の席でのネタぐらいにはなるでしょう。
エネルギーと目的が無い時にはひたすら方法を習得します。
しかしそもそも目的が無いので、無限にある方法の中からどれを選ぶかという基準も、選んだ方法をどこまで身につければよいのかという基準もありません。また、エネルギーが無いので結局行動には結びつきません。しかし、いくらエネルギーを意識的に湧かせようとしてもうまくいきません。目的を持とうとしても、無理矢理決めた目的などすぐに無意味に思えてきてしまいます。

こういうときは、それがその場しのぎであり、社会的には賞賛されることも無いものだとはわかっていても、人間の原始的な欲求を持ち出すことにしています。例えば、金銭欲とか名誉欲とか性欲などです。長続きしないことはわかっていても、一定期間エネルギーが湧き、目的を持てるなら、なんとか「人としてまとまった形で」生きていけるからです。
書いていきたいと思います。
少しでも余裕のある時に、自分が死なないための、発狂しないためのしかけを自分の人生に組み込んでおかなければなりません。自分を救えるのは自分しかいないのです。そうやって自分は今までも過去の自分に救われて来ました。今度は未来の自分を救ってやる番です。
今持っている自分の知恵となけなしのエネルギーを総動員する必要があります。
そうまでして生きていく意味があるのかと思うかもしれませんが、たとえ今死んだからと言って「死にきれる」保証はどこにもないのです。そもそもこうしてこの世界に生まれて来たこと自体が圧倒的に理不尽なのだから、いつまた理不尽に「意識を回復」させられてしまうか、別の時に別の場所で「復活」させられてしまうかわかったものではありません。無限回生まれ変わらされて、永遠に生き続けなければならないのかもしれないのです。理不尽さとはとことん理不尽なものです。
逃れられるなんて思わない方が身のためです。