雨
今日は雨だ。ひさしぶりに、降り続いている。。。各地での豪雨や水害も気にかかる。自然災害が世界中で起こっている、という報道がある。

一般に「雨」は、気象的なことなので、自然に任せるしかないが、
我々人間にとって、とくに、日本においてはどうとらえているのだろうか?
朝起きて、会社へいかなければいけない。。窓を見ると「あ~雨か~、傘ささなきゃなぁ。。。」
「あ~自転車乗れないなぁ、歩いていかないと。。。」
「あ~あ、雨か、憂鬱だなぁ。。。」
そのような声も聞こえてきそうである。

サラリーマンにとっては、天気は気がかりなものである。
 

ところで、
キリスト教については、もう少し原点に立ち返り、
聖書的にはどうであろうか。
上記のようなモノローグはなさそうであるが、
今のイスラエルやパレスチナ地方での気候は、日本とは異なる。舞台となるカナン地方(パレスチナあたり)や中東と言われる場所の多くは、
砂漠も多いし、荒涼たる岩ゴツゴツした場所である。
北海道美瑛のようなラベンダー畑やチューリップ園や森の緑などのような、観光客の目を楽しませるような場所は日本ほどはない。。。と思うのだが。

そこで暮らしていた人々のことが主に描かれている。しかし、場所や気候の差こそあれ、人間の業や行いによる事柄は、今でもそう変わらないことが読み取れると思う。
人間は、思いあがりによる失敗や罪をおかす動物なのだ。だから、神は、人間に十戒のようなルールを与えられた。いまの法律もそういうところから、続いているといっていいとおもう。
でも、それでも、人間は、そむいてしまう。わかっちゃいるけど、やめられない。。。的なことも。

キリスト教やそういう宗教を勧めているのではない。私の考えをちょっとだけ。。。。

その当時、幅を利かせていたのが、ユダヤ教の指導者や律法学者である。今で言うエリート層だろう。彼らは、神様からのルールを細かく決めて、それを破ったものを裁判にかけ、さげすみ、差別していたのだ。今でもそういう世界はあるだろう。相対的に、身分の低い者たちが出てくる。
「あ~自分はだめな人間だ。。。。」「神にも見放されている。。。」
希望も夢もない一般庶民が多くいたのだ。格差社会というものが形成されていた。

しかし、「メシア」の臨在の教えを信じていた人たちはいた。
メシア。。救世主である。

それを、イエスキリストととらえるか、そうでないか、で、ユダヤ教とキリスト教が分かれて行くことになる。
('-^*)/