北海道の槍 芦別岳

 芦別の遭難は日高に次いで多い。昭和31年旭川商業で登山中、熊の沢クレバスに転落し2名が死亡、其の時遺体を背負い泣きながら下山した同高校のS氏は、後年ホロカメトックの雪崩で遭難死した。更に遭難は続いた。昭和33年北大女性が転落死。また昔ユーフレ川で身元不明の遭難者の頭骸骨を発見、このように人知れず消えた人もいる。列記できないほど多い。

 自分は芦別の新道に飽き足らず、26歳の時、旧道(北尾根)の尾根を渡った。芦別の岩稜は「北海道の谷川岳」とも言われている。岩稜1つ1つが岩屋(クライミング)の登攀の実践の場である。

北尾根から先のキレット(V字状に切れ込んだ場所)の向こうに鎮座した芦別岳は途轍もない巨岩の山である。屹立し怒りの形相で睨みつけ、その山容の荘厳さにひれ伏すばかりだった。南方、彼方にある惣芦別岳やキリギシ山が恐竜の背骨のような岩峰となっているのに気づいた。その時、「よーし、あの背骨を全部登るぞ!」と誓った。後年それをやり遂げた。

 

芦別本谷                           〔25~35歳〕

 自分の関心が芦別の本谷に移る。昭和35年頃に巖牢なコンクリートで造られたユーフレ小屋を起点によく利用した。若者の情熱を燃え滾らせたのは急登の雪渓の谷、登攀だった。途轍もない空間が広がった巨岩がそそり立ち、生半可な登山者を終始威嚇しているのだ。

谷を埋め尽くした分厚い雪がゴルジュの滝を隠しているとは知らず、分厚い雪渓の割れ目から迸る水流を覗いて見た。そこは悪魔の口が「喝っ!」と開いた地獄門であった。最初は谷底を振り返り「滑ったら、お陀仏だ!」とピッケルを持つ手に汗を滲ませた。完登した時「自分如きでも登らせて貰えた」と思い、そして芦別岳が大好きになった。この芦別岳の荘厳さは何処から見ても素晴らしい。

 芦別岳にはいくつもの山の真髄が隠されている。地獄谷を持つ「本谷」は芦別の別の顔である。その本質が今でも目に焼き付いている。上段の主峰芦別岳を雲が隠し、その雲を目指して雪渓を一歩一歩登った。岩盤は垂直に聳え、(もや)った灰色の中に忽然と雄姿を現わし、その時畏怖の念で驚愕するのであった。

 経験を重ねると熊の沢 ~ 本谷下降や夫婦岩近くから雪稜崖の急斜面をストック2本で下降した。

踏みだす足の先が見えない。急斜度で下の様子は全く隠れて見えない。これも本谷を登る前に直下の障害物(岩)を確認した上での下降だった。いつでも滑落体制で構えながら遣り遂げた。プラ靴のアイゼンの(かかと)でステップを切る瞬間は流石に神経を張り詰め、集中と緊張の連続だ。静寂だけがこの谷を支配していた

 

滑り落ちる岩との接触回避                    〔54歳〕

 この山で何度かきわどい思いを経験した。谷を登ってきた斜面が急勾配になる。芦別本谷の核心に差しかかった。突然「()く!()く!」と後方のT氏の怒声、自分は氷雪の壁を噛んで直立しており身動き取れない状態にいた。

横飛びに逃げるか?否か?はコンマ何秒の判断で決まる。30㎝台の大きさの岩は早、眼の前に来ていた。咄嗟(とっさ)の判断もできず立ち尽くす。

「よかった、避けなくて結果オーライだった」

ニッカボッカの太腿をカスって谷に猛烈に落ちてゆく。直撃されずに済み、命拾いだった。ズボンの僅かの損傷と右太腿に1本の赤線の跡を残しただけで済んだ。