山への憧れは大雪から始まり渓に憧れた               〔26歳

 

 各町村では伝統ある山岳会を持ち、長老が会を牛耳っている。山開き、山納め、登山会にできる限り彼らと接触を試みた。「ペテガリ岳に連れて行ってください」と、その際は必ず懇願した。答えはどれも「経験が乏しい、若すぎる」と、こんな若造を相手にしない。プライドが高い輩と判断した。

 山頂の憩いや独り野営の時などは仲間が欲しいと思う。しかし気の許せる山仲間など居る筈もなく、厳しい規律と肉体を錬磨した学生時代の時のような仲間もいない。本州の山は少しはは登っているが、どれも大した記憶に残ってはいないし感動を受けなかった。それが大雪を知ってから山登りに目覚めた。仲間がいないながらも独りで登山をやっていた。

 我々社会人にとってはゴールデンウイークが長期休暇でもある。特にこの期間はメンバーが欲しかった。縦走であれば車は2台必要だ。共同装備も分散できる。メンバー欲しさに山で知り合った人に話しかけ、参加同行の了解を得る。しかし俄か造りのメンバーは何かが欠ける。計画に向けて山の期待と思慕を高めていても直前になると必ず辞退者が出るのだ。突然のキャンセルもある。相手の軽率さや無責任を理解できず、準備が無駄になって当てにできない者たちに不信感を抱いた。

 大雪を闊歩し、ソロでテントを張り仲間がいなくても平気になった。地方の街を転勤するたびに少しは存在を知られるようになり、好意的に個別山行に誘われることも増えて来た。彼等が行くのは名の知れた山で自分が恋焦がれる山を並べてもほとんど反応はなかった。

 

 或る山岳会からニペソツ登山会の招待を受け承諾した。焚火の晩餐会も終わり、各々テントに戻ってゆく。山岳会の大型テントの隣で独りテントを張った。布切れ1枚を隔てて酔った声が聞こえてくる。筒抜けに聞こえる話し声に「あれ? 自分の入会審査なのか?」と、聞き耳を立てた。

内容はこうだ。「未知数だ、協調性はあるのか? 当分準会員として様子を見よう。但し彼の車が必要だ、遠征登山の場合もう1台はどうしても必要だからな」と、話は長々と続いていたが腹を立てて寝袋に(くる)まった。

自分は車だけの安っぽい男なのだ。早速入会の話を切り出されたが頑として拒否する。俺は独り身の山風来坊で充分だ。

 翌日登山会は冷温濃霧の中ニペソツ山に全員が登頂を果たした。当初からの班編成でホロカ温泉に降り湯船につかる予定だ。我が班が先行しホロカ分岐で待つこと1時間、後続班は誰も追いついて来ない。我が班の隊長は幌加ルートがよく分からないという。副隊長(女)は寒さを訴え顔色が変わっている。急遽自分が先頭に立ち、7人を引き連れてホロカ温泉に下山した。

他の班の連中は濃霧で道が不明瞭となり、統率リーダーの指示で杉沢キャンプ(登り口)に降りたとの事を後で聞く。役員が「先行7人の班が不明なので心配していた」との安堵の様子には呆れ返った。

其の後もこの山岳部からの勧誘があったが断り続けた。

 

 単独で行くことに躊躇はなかった。山道で集団を追い抜き、足早に行ける独行者であった。最初は大雪に夢中になった。四方八方から大雪に登った。自分を評価してくれる者は何処かに居ると信じ、時にはレベルの高い山岳部の門を叩いた。

どの山岳部もどういう理由かこの若僧を相手にしない。当時の岳人(山屋)は経験者が多く、仲間の絆とプライドの塊だった。大雪如き山頂に立ち、大雪縦走をしたなどは問題にされない。どんな登攀訓練を受けたか? 遭難対策の無線対応、計画の事前提出、企画検討、単独行の有無etc。

自分の弱点を並べられ、やがて山岳会に入る気持ちを失っていく。

しかし受け入れられない理由が若者自身にもあった。それは過信というべき自惚れの言動に見られた。決められたルートを群れて歩くことをハイキングと呼び、自立心が無く相互依存の集団行動と言った。要するに自分勝手に自由を求め自然の中を闊歩し誰よりも超スピードで登下降する。この若者が会のレベル調和と統率を乱す輩と見られたのか? その頃はそんな事を知る由もない。わかっていたとしても撥ねつけるプライドがあった。

 

 20代後半、各地を転勤する中で健康スポーツの熱心な町があった。体育館、スポーツ課、健康福祉課のバックアップのもとで歩く、走る、運動の会で200人もの会員を有していた。

其の時、山をやる者が来町したとの噂で自分の承諾なしで山部門担当の会員にされた。

彼等の楽しみは町民バスで山に連れて行って貰える事だ。最初は町民老若男女の笑顔と健康が自分への期待の表れと思い熱心に取り組み、町全体を動かした。

次々とリピーターから「次の山は何処へ連れて行ってくれるの?」との声があがる。ボランティアの役務に忙殺され会社も自分の事(山)も出来ない。既存の地元山岳会からよそ者が第2山岳会を造ろうとしていると公に非難される。こんな矛盾が沸きあがり、そんな中で決断した。「中高年との付き合いは年2回、冬の佐幌岳登山と夏の大雪ハイキングに限定し本来の自分を取り戻したいと思う」と、役員会総会でハッキリと断言した。

 

 敢えて登山道を外れ人の来ないルートを選ぶようになった。もっと挑戦的な山を求めるようになる。あれだけ通った大雪も新鮮な響きがなくなった。素直な感動が薄れてゆく。それだけ大雪の山の風景も慣れ過ぎてしまった。感覚が薄れ自分が惰性の登山になって行く事が恐ろしかった。

 北海道の山は青春の舞台だった。自然の中で負けまいとする気持ちが培われたようだ。

大雪の雲上の頂に立っても天空を極めた喜びや感動がある訳ではない。涙溢れる感動や達成感など感じられない。形の無い勲章を胸に抱いただけの事で何等満足は得られなかった。

 

沢に変更する

 登山に新たな変化を求めた。変革がなければ進歩はなく、新鮮な価値を得ようと思った。

ある日から大雪に行かなくなった。沢登りに変更したとしても周りにその情報をくれる人もいなければ沢屋との出会いもなく自分独りで学ぶしかなかった。

何せ覗くだけでは駄目だ。まず一歩踏み出すのだ。それが他人には認められなくてもいい。沢渓流登攀という日陰の山岳道を学びたい、自分独り、自分本位で開花したい。

少年の頃心に描いた「冒険」という言葉が自分の心を(とりこ)にしたまま残っていた。強い自分を具現するために邁進した時を思い出した。

 訳も分からず作業専門店で地下足袋と草鞋を買った。足裏がデコボコで分厚い登山靴とは偉い違いだ。でも軽くて歩きやすい。その夜から砂利道を薄い地下足袋で毎晩3k走った。

 沢をやる気持ちがムラムラと湧き上がる。こうして渓への憧れが自分の行き先を決めた。