大國魂神社(H.29.4.1) vol.1
大國魂神社へ向かうため府中へやってまいりました神社への道は欅(けやき)並木となっていて天然記念物に指定されてるようですね正面に神社の鳥居が見えますこの欅並木は「馬場大門の欅並木」と呼ばれ全長が約600mあるのだそうです馬場大門は「馬場中道(大門)」「東馬場」「西馬場」で構成されていて本道の馬場中道の両側に並木があります馬場の名前が示す通り安政年間頃まで東馬場・西馬場で馬市が立っていたそうです東馬場・西馬場は馬を品評するためのパドックの様な場所で馬場中道と東馬場・西馬場それぞれの境に馬留めの土手が存在したとかまた馬場大門の北端には六所宮(現代の大國魂神社)の一の鳥居南端にはニの鳥居(現代の大鳥居)が存在し馬場中道は六所宮の参道として機能していたようですよ馬場大門の欅並木のように馬場に植栽を行って並木を設ける行為は江戸時代頃に日本各地で行われたそうですけど堤防の桜並木は例外として江戸時代中期の並木は「松」や「杉」などの針葉樹で構成するのが常識だったそうです明治時代以降並木は広葉樹が一般的になり各地に欅並木が設けられたけど馬場大門の欅並木は江戸時代にあって広葉樹の欅を中心に植栽された珍しい例なのだそーです当時の欅は全く残っていないそうですが欅並木の最古の欅は樹齢約600年古木も多く残っているとか天然記念物に指定されてるのも頷けますね源義家公の像頼義・義家の父子が奥州征伐の途中に大國魂神社へ戦勝を祈願し凱旋時に欅の苗木を1000本を奉樹したのが府中の欅並木の発端なんだとか徳川家康が江戸入城した後江戸の開幕を行いそれを祝して慶長年間に欅並木に補植また関ヶ原・大阪両陣の奉賽のため両側に馬場を寄進したのだそーですよ忠助並木道の脇にこんな像が置いてありました「大黒様はその昔 須佐之男命(スサノオノミコト)の娘 須勢理毘売(スゼリヒメ)と 恋に落ちました そのために 三つの大変な試練を与えられましたが 鼠(忠助)に助けられ 難を逃れることが出来ました そして 大黒様はその恋を無事成就することが出来 以来 鼠が神使とされました」と看板に書いてありますそのようなエピソードはありますが文献には「忠助」という名前は出てこないので地元の創作という噂も…(笑)大國魂神社到着神社入口の鳥居前に2本の御神木がありましたかなりの大きさと存在感ですこれが樹齢約600年と言われる欅の大木のようですよ大鳥居手前の狛犬凛々しいっすね大鳥居高さ10m重さ95t御影石製では日本一と言われているそうです参道真っ直ぐに伸びる石畳と左右の緑が良いですね宮之咩(みやのめ)神社参道の左側にあります「咩」という漢字が変換で出てこない…この神社の創立は本社大國魂神社と同じ景行天王の御代(111年)であると伝えられ古くから「芸能の神」「安産の神」として古くから崇敬されているそうです例大祭は7/12で文治2年1186年源頼朝より武蔵国中の神職に天下太平の祈願を行うように令して以来毎年この日の夕食から翌朝にかけて国中の神職が参会し終夜神楽を奏し祈祷が行われたそうですこの祭りは青袖・杉舞祭と言われているそうで宮之咩神社例祭にて「青袖舞」を奏し終了した後本社へ参向し「杉の舞」を奏すのだそうですまた頼朝の妻政子がこの神社に安産祈願をしたという言い伝えがあるそうです安産祈願の折に願いを託した絵馬を奉納し無事に願いが叶うとお礼に底の抜けた柄杓を納める風習が今でも行われているそうですあこれの事ですね〜よく見ると底に丸く穴が空いています宮之咩神社の隣には土俵がありましたこの相撲場では毎年8/1に八朔相撲祭が行われてるそうです1590年(天正18年)8月1日徳川家康の江戸入城を賀しこの日を記念して天下泰平・五穀豊穣を祈る奉納相撲として始まったものであり領民の体育奨励の目的を以て幕府より水引幕を献納されたという由緒あるお祭りなのだそうです八朔(はっさく)とは「八月朔日(さくじつ)」の略で朔日とは毎月1日の事この日は昔から吉日とされ各地で祭礼が行われるそうですね夏の忙しい畑仕事も一段落し稲の初穂を神に供え豊作を祈願するので「田の実(頼み)の節句」とも言われてきたようですさらに台風シーズンを前に農作物が自然災害を免れるよう祈るのだとか日露戦没記念碑相撲場と参道を挟んで目の前にあります石碑表には元帥・伯爵野津道貫の書により「日露戦没記念」裏面には米庵流の書家本田退庵の書による出征軍人の名が刻まれているそうです忠魂碑こちらは大東亜戦争における郷土出征戦没兵士の忠魂を偲んで建立毎年9/24に府中市郷友会主催により慰霊祭を行っているそうですよ手水舎現在のものは明治30年完成で棟梁は当時拝殿や随神門の建築を手掛けた佐藤彌一と中村長作だそうです千鳥破風の屋根に獅子や龍、獏や鳳凰などの彫刻がありますこれは江戸彫工の飯田家四代目飯田勇次郎によるものだそうです随神門平成23年の大國魂神社御鎮座1900年事業として改築されたそうです門高さ8,5m、幅25m門扉高さ4,5m、幅4,7m扉一枚が畳5畳文ほど国産の檜で製作され屋根は銅板葺き木造の門としては希にみる大きさだそうです右大臣豊磐間戸命(とよいわまとのみこと)左大臣櫛磐間戸命(くしいわまとのみこと)享保20年(1736年)に是政出身の代官川崎定孝により奉納された「随神像」倣い製作されたそうです製作には古くから伝わる顔料、材料を使用し江戸時代に作られたであろう工程で製作された近年では類を見ない「随神像」だそうですよ随神門の裏側には恵比寿像こちらには大黒天の像が納められてます「大黒」が「大国」に通ずる所から大国主神と大国天が習合され民間信仰に浸透したようですちなみに大國魂神社の境内には松の木が一本もなくまた植樹しても直ぐに枯れてしまうと言われているそうですそれは大國魂神社の御祭神である大国主神が八幡さまに「二人で武蔵野の野原に行こう」と誘われ出掛けたものの暗くなっても宿が見つからないそのうち八幡さまが「宿を探してくるから、ここで待っていろ」と言っで出て行ったまま帰って来なかったそうです待ちぼうけを受けた大国主神は「待つは憂いものつらいもの」と言われたそうですここから大國魂神社では「待つ」を「松」にたとえて植物の松を嫌うようになり今でも松の木を植えることはなく植えたとしてもすぐに枯れてしまうと言われているそうです地元の府中市では正月の門松に「松」は使わず「門竹」を使うことが多いのだそうですよ面白いですねぇ〜鼓楼(ころう)時刻や緊急事態を知らせるために太鼓を置いた建物で元は中国で発達したもので鎌倉時代に日本に移入され主に寺に設置されたものだとか寺の「鐘楼」に対して神社では太鼓を置くから「鼓楼」と呼ぶそう慶長年間の造営の際に三重の塔と相対して建築されたそうです正保3年(1646年)に火災で消失し1854年に再建されたそうですその時依頼三重の塔は無くなってしまったんでしょうかしだれ桜すごく綺麗に咲いてました神前結婚式をしていてこの桜の下で写真を撮っていましたこれは絵になりそうっすねー中雀門(ちゅうじゃくもん)城内又は武家屋敷の内部に設けた門の事を言うそうです「中柵門」の転化されたもの…という説も?中雀門の前にも狛犬が一対こちらの狛犬調べてみると授乳中の狛犬だそうですよ!この角度で写真を撮ったから判らないけど…うーん…もう少しちゃんと見てくれば良かったえーと…大國魂神社を回った記録はどうやらボリュームが多いみたいで40000字以内に収まらないようです西新井大師もかなりボリュームあったけど収まったんだけどなぁ…なのでここまでを「vol.1」拝殿から先は「vol.2」として記録に残しておくことになりました写真が重かったかなぁ…貼り付けとかしてないけどなぁ…うーんまぁしゃーないかぁー