『孤独のレッスン』と言う本で取り上げられていたので読んでみました。
映画は以前TVで見た事があり、大体の内容は同じでしたが結末が全く違うので驚きました💦
愛する夫がいながら自分の中の別の自分の欲求を満たすために昼間だけ娼館で働く女性の話ですが、映画では彼女に入れ込んだチンピラの若い男性が彼女の夫を撃ち殺そうとして......と言う話だったのに本の中では違っていました。
夫の友達が彼女が働く娼館に客としてやって来たところまでは同じだったのですが、夫に告げ口するのではないかと疑った彼女がチンピラに頼んでその友人を殺してもらおうとしたところ、庇おうとした夫のこめかみをチンピラがナイフで刺して.....が原作でした。
又、彼女の秘密を意識があるかないか判らない夫に告げ口するのがその友人だったのに対して、秘密にしているのに耐えられなくなった彼女が告白すると言う点も書籍と映画では異なっていました。
そして結末ですが......映画では半身不随となった夫の世話をする彼女は、もう性的な妄想から解放されて夫と精神的な愛でのみ繋がれ幸福に浸るという異常な解決感を漂わせていたのに、本の中では良く判らないのです。
彼女が自分の二面性と罪を夫に告白すると.......それまでは弱々しくも声を出す事が出来た夫が全く声を発しなくなったからです。これは以下が考えられるのですが結末は記されておらずモヤモヤしました。
①夫は天使の様に無垢だと考えていた妻の二面性に失望した上、彼女のせいで自分は体の自由も仕事も奪われた為に恨んでいる。しかし車椅子の生活を支えてもらうためには彼女の力が必要であると考え惰性で彼女と暮らす事を決断した。
②妻を全面的に赦してはいるが、自分が何かを言う事によって彼女を苦しめる事になるのをおそれ会話する事を拒否している。
③妻の二面性を察する事が出来ずそれが彼女を苦しめこの様な事件を起こしてしまった。それは自分の責任であると夫は考えた。脳を損傷して以前のように会話は出来ない。彼女と完全に愛と心が繋がった今、夫はもう会話の必要もないと考えているから。
個人的希望からすると③であって欲しいと思いました。
『昼顔』、ケッセル著
堀口大學訳、新潮社
昭和27年
---------- 以下2021年6月の日記 ----------
同タイトルの映画を2本。まずはカトリーヌ・ドヌーヴの方から。
セブリーヌ(C・ドヌーブ)とピエールは、仲の良い幸せな夫婦だ。二人はお互に心から愛しあっていた。セブリーヌは夫によく仕え、満足な毎日を送っているのだが、彼女が子供の頃、野卑な鉛管工に抱きすくめられた異常な感覚が、潜在意識となって妖しい妄想にかられてゆくことがあった。セブリーヌの奥底に奇妙な亀裂が生まれていることを、ピエールの友人アンリだけは、見抜いていた。アンリはなぜか、いつもねばっこい目でセブリーヌをみつめているのだった。セブリーヌはそんなアンリが嫌いだった。ある時、セブリーヌは友人のルネから、良家の夫人たちが、夫には内証で売春をしているという話を聞き、大きな衝撃を受けたが、心に強くひかれるものがあった。テニス・クラブでアンリを見かけたセブリーヌは、さり気なくその女たちのことを話した。アンリもまたさりげなくそういう女たちを歓迎する家を教えた。セブリーヌは、自分でもわからないまま、そういう女を歓迎する番地の家をたずねるのだった。そして、セブリーヌの二重生活がはじまった。娼館の女主人アナイスは、セブリーヌに真昼のひととき、つかの間の命を燃やすという意味で「昼顔」という名をつけてくれた。毎日、午後の何時間かを、セブリーヌは娼婦として過した。セブリーヌには夫を裏切っているという意識はなかった。体と心に奇妙な均衡が生れ、一日、一日が満ち足りていた。しかしマルセルという粗野で無鉄砲で野獣のような男が彼女にすっかり惚れこんでしまい、夫と別れて自分のものになれとセブリーヌをおどす。セブリーヌが言うことを聞かないと知るや、ピエールを狙撃した。ピエールは命を取りとめたが、車椅子の生活で廃人同様となってしまった。セブリーヌは生ける屍となったピエールの世話をして暮らしていくのだが、彼女はその暮らしに充足感を感じるのであった。2人は前よりも幸せな生活を送ることになった。そして、セブリーヌはあの変な、いまわしい妄想が、永遠に遠去かって行くのがわかった。 (goo映画のあらすじより抜粋)
この状況を判断すると結末は不幸であるのにも係わらず、セブリーヌは廃人同様になった夫の世話をする事に幸せを感じ、忌まわしい妄想も消えてしまいます。歪んだ愛の形であったとしても彼女は本当に夫を愛していたのだと思います。
映画を見た多くの人はどこかのサイトであらすじを読まなければ最後がどうなったのかが判りにくいのではないかと思います。抽象的だったり回顧シーンが含まれていたりと内容が難しいが面白い作品でした。若き日のカトリーヌ・ドヌーブの作り物の様に完璧な美しさも見所です。
続いて上戸彩の方。ドラマは見ていませんが、映画はなんと地元がロケ地だったので見てみました。
ドラマは見ていなかったのでそれまでの経緯が判りませんでしたが、カトリーヌ・ドヌーブの「昼顔」からヒントを得て.....みたいな話を聞いた事があったので大体は予想できました。
内容は、連絡を取らない、会わないと言う合意書まで交わし、ご主人と離婚して知らない町に越した紗和ですが、ポストに入っていた蛍のセミナーの講師が北野である事を知り、おそらく顔だけでも遠くから見たいと出かけてしまうところから始まります。
常識的に考えたら、行くだけでも会ってしまう可能性があり、意識的に会うのでなくてもこれはいけない事ですが.....人間の感情など理性で抑えられるものではなく、紗和は行ってしまって北野と再会します。言葉を交わしはしませんが、「独り言」と言いながら相手に意思を伝えたりと.....これはどうかなという感じでした。
お話の展開はやたらと蛍の研究でと出かける北野に不信感を抱いた妻が尾行する事から、二人が再度会っている事がばれてしまい、北野は妻と離婚する事にします。紗和と同居しようやく離婚届にサインをもらい、翌日には入籍しようと思った所に悲劇が起こります。
北野が自分に内緒で妻と会っている事を知った紗和は嫉妬し、妻に会いに行く所があります。妻は階段で転んで脊髄を痛めたと車椅子に乗っていました。北野は買い物や片付けをしに時々訪ねていたようでした。妻は紗和に離婚しても「裕一郎と呼んでいい?」と尋ねます。しかし、紗和がこれを断ると怒るのではなく「ふっきれた」と言いました。もし、ここで紗和が「はい」と答えたなら、悲劇は起こらなかったと思いました。人のご主人を取ってしまったのは紗和なのですから。
離婚届を受け取りに来た裕一郎に妻が「この後婚姻届けは出すの?指輪はどうするの?」と質問しました。裕一郎はすぐに婚姻届けを出すことと、安物の指輪ではあるが購入した事を嬉しそうに話します。妻は階段で転んだのは嘘で本当は自殺しようとしたと告げます。妻は車で裕一郎を送ります。途中で......まさか.....と思いました。妻は自分の方が裕一郎を愛している、なのになぜ紗和を選んだのかと尋ねます。裕一郎は「判らない。でも紗和が好きなんだ。」と答えます。そして、妻は車のスピードを上げ高台からガードレールを超えてしまいます。
映画を見た人の中には不倫であっても純愛と言っている人がいるかもしれません。ですが、私は紗和と裕一郎は余りにも無神経だと思いました。いくら妻が平気だと明るく振舞ったとしても、もう少し謙虚に、相手の気持ちを考えるべきではなかったかと思いました。
他の人のレビューを見ると後味の悪い映画というコメントを見かけます。しかし私は、この映画はある意味ハッピーエンドだったのだと思います。裕一郎は亡くなってしまいました。しかし、それは自業自得です。妻乃里子は紗和に裕一郎を渡さずに済みました。遺骨はまだ離婚前だったので自分が引き取り、そうする事に対して紗和に対する復讐が出来たという事になります。紗和は不幸になったように思えますが、後に裕一郎の子供を妊娠している事に気付きます。女性二人は傷つき、苦しんだものの最終的にはそれぞれ納得出来る結末に辿りつく事が出来たと言う事です。
妻の昼間の不倫という事で付けらえた「昼顔」というタイトルですが、私はカトリーヌ・ドヌーブの映画とは全く異なり、比較したり同視してほしくないと思いました。何故なら、ドヌーブの映画では昼間不倫をしていた妻は夫を本当に愛していたのです。紗和とは違います。
ドヌーブの映画では妻は娼館で働き、そこで出会った客の嫉妬でご主人を銃撃されてしまうのですが、半身不随になった夫に対してより強い愛を感じるようになります。どちらも歪んだ結末ではありますが、ドヌーブの昼顔は純愛で、上戸彩の方は単なる不倫という気がしました。