軽井沢高原文庫で「生誕110周年立原道造展 夭折の生涯を辿って」が開催されている。

 風越公園への散歩の帰路、立ち寄って見た。

 

 学生時代、友人たちと文藝同人誌をやっていたのびパパは、特に立原が好きだった。

 耽溺していた、と言ってもいいかもしれない。

 

 当時のペンネーム、「道哲辻」は立原道造と和辻哲郎のお二人から拝借したものだ。

 『超エネルギー地政学』の「はじめに」で記したように、『風土』はのびパパに理系から文系への志望転換を迫った知的衝撃そのものだったが、それよりも友人たちから「道さん」と呼ばれたかったのだ。

 ビートルズと藤圭子が好きで、文学を語ると立原道造と寺山修司ばかりを口にするのびパパだったが、いまは亡き同人先輩のM氏から当時「もっと骨太のモノを読め」と叱られてばかりいた。

 

 だがのびパパは、いわゆる立原ファンではない。

 

   たとえば今回軽井沢高原文庫で求めてきたのは、夏季特別展のために出版された『高原文庫第39号』と『立原道造と杉浦明平 -往復書簡を中心として-』の2冊だけだった。

 

 前者は本特別展のために、立原に寄り添うように記された寄稿文に満ちている。いわばファンの集い文集である。

 

 

 たとえば冒頭、谷川俊太郎が『午後二時の』と題する14行ソネット詩を寄稿している。

 続いて小池昌代が『蛾を追いかけて』という小文を寄せている。

 

 二人とも、立原にいささかも批判的ではない。

 抑え気味に、だが心を寄せている。

 のびパパとは、立原体験が異なるのだろう。

 

 後者は、一高時代の友人であり、だが立原と異なり時代に目覚め、戦後日本共産党に入党した経歴を持つ作家、杉浦明平との往復書簡をまとめたものだ。

 

 

 のびパパは社会人になる直前、書いているものが余りに観念的すぎることに自らあきれ、実社会を生きて、現実を描けるようになるまで書くのを止めようと、気取っていうと「筆を折った」経歴がある。

 爾来、半世紀、文学とは縁遠い生活をしてきた。

 

 ほぼ半分にあたる21年間の海外勤務を含め、サラリーマンとして43年間、一貫してエネルギー関連業務に従事してきた。

 2014年6月にリタイアした直後に、いわばサラリーマン生活の卒業論文として『石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか?』(文春新書、2014年9月)を上梓する機会に恵まれた。

 爾来、エネルギーアナリストとして活動を行っている。

 そしてリタイア後は毎年、夏の軽井沢で執筆生活を続けている。

 

 軽井沢、と言ったら立原だ。

 夏を軽井沢で過ごすようになって10年目の昨年夏、軽井沢図書館で筑摩書房が2006年以降、35年ぶりに出版した全集5巻本を借りて来て、ふたたび読み込んでみた。

 そして愕然としたのだ。

 18歳からの数年間、なぜのびパパは「このような」文学に耽溺したのであろうか、と。

 

 立原が一高に入学した昭和6(1931)年、満州事変が勃発した。

 昭和7(1932)年には満州国が建国され、政党政治の終わりを告げた5・15事件が起きた。

 東大入学は昭和9(1934)年で、2・26事件は昭和11(1936)に発生している。

 満蒙開拓「分村移民」のモデルと言われた満洲大日向開拓村は、昭和12(1937)年に第一次先遣隊を派遣している。

 

 このように、世の中は軍国化の真っただ中で、立原の友人の中にも出征するものも出ていた。

 軍靴が響く騒然として時代に、なぜ立原は超然として、あのような世界を書くことができたのだろうか?

 そんな立原に耽溺した青年、のびパパはどのような青春を送っていたのであろうか。

 

 杉浦明平との往復書簡集を求めてきたのも、その秘密を探る第一歩だ。

 新刊筑摩全集には、立原から杉浦に宛てた書簡は掲載されているが、逆のものはない。だから、いま一つ二人の議論を理解できていなかった。

 往復書簡を読めば、輪郭くらいは把握できるのではないだろうか。

 

 ともあれ、まずは往復書簡集を読んでみよう。

 そして、東京に置いてきた数冊の「立原メモ」をいま一度読み返してみよう。

 

 人生最後の夢である恋愛小説を、できれば立原と水戸部アサイをモデルとして、ものにしてみたいと念じつつ…。