故あって、再び京都への新幹線に乗っている。

 今回は、ワイフが崎陽軒のシウマイ弁当を購入してくれた。

 楽しみ!

 

 シウマイ弁当には忘れられない思い出がある。

 今回ものびパパの思い出話にお付き合い願おう。

 

 1971(昭和46)年7月に三井物産に新卒入社したのびパパは、3年弱の石油部需給課勤務の後、1974年春に同部重油ナフサ課に異動になった。極東石油の生産計画と三井物産石油販売の販売計画の“ズレ”を調整する国内業務から、晴れて重油とナフサを輸入する海外業務への異動である。

(商社マンと言ったら、やっぱり海外だよね)

 

 のびパパの任務は、三井グループのエチレン製造メーカー大阪石油化学(OPC=現三井化学)向け、クウエート国営石油(KNPC)からのナフサ長期契約の運営管理である。

 とは言っても入社4年目、新入社員に毛が生えたようなものなので、上司に指示されたことは何でもやるという立場だった。

 

 最初に命じられたのがナフサ船(タンカー)の立ち合い業務だった。

 

 ナフサとは石油製品の一種で粗製ガソリンとも呼ばれている。石油化学の基礎原料エチレンを製造する主要原料である。アメリカでは豊富な国産天然ガスを原料としているが、石油もガスも輸入依存のわが国では原油を精製して製造されるナフサを原料としているところが多い。OPCのように、すべて輸入依存というエチレンセンターも少なくない。

 

 1か月に2度の頻度で、はるか離れた中東の地からナフサ船が到着する。本船が到着するたびに輸入手続きが必要になる。やることはいつも同じだが、何か事が起こったときには応用動作が必要になる。現場を知っていれば電話での問い合わせにも、より適切な対応ができる。だから上司は着任したばかりののびパパを、大阪は堺にあるOPC泉北工場に出張させたのだろう。

 

 

 最初の出張は直属上司が連れて行ってくれた。確か、入社年次が6年早い先輩だった。

 「これからはこいつが担当します」とのびパパをOPCの方々に紹介するために同行してくれたのだ。

 次回からは単独出張だった。

 そして初めての単独出張の時に事件は起きた。

 

 本船上で輸入手続きを終え、マニフォールドをつないで荷揚げを開始したところ、タンカーから陸上タンクへのパイプラインが大きく揺れだしたのだそうだ。現場の受け入れ監督はすぐに荷役を止めさせた。

 OPCサイト事務室にいたのびパパは本船に戻り、対応策打ち合わせに臨んだ。現場受け入れ監督の通訳である。

 船長に次ぐ、ナンバー2の一等航海士が本船側の代表だった。彼は、当該タンカーのポンプは回転するセントリヒューガル・タイプではなく、往復するレシプロ・タイプだという。だからナフサがパイプ内で揺れ動き、パイプラインも揺れるのだろう、と。

 現場受け入れ監督は「そんなタンカーを用船したのか!?」とのびパパを睨む。

 

 三井物産はFOB(本船受渡し)条件でKNPCからナフサを購入し、タンカーを用船し、保険を付保してCIF(運賃・保険料込み)条件でOPCに販売していた。

 当該タンカーの用船はのびパパが着任する前にの直属上司が行ったものだった。

 ポンプタイプがセントリヒュ―ガルであることはOPCの重要な本船受入条件だったため、用船するときにきちんと確認している。締結した用船契約にもその旨記載されている。

 のびパパはこれを根拠に一等航海士を追求した。

 だが、一等航海士は「このタンカーは、生まれたときからレシプロ・ポンプだ。何か?」と応えるばかりだった。

 

 どこかでコミュニケ―ション上の手違いがあったのだろう。

 セントリヒュ―ガル・タイプのポンプを備えたタンカーを用船したはずなのに、堺泉北港に到着したのはレシプロ・ポンプを搭載したタンカーだったのだ。事実は小説よりも奇なりというが、事実は事実としてどうにも変更のしようがない。

 タンカーには数万トンの石化原料であるナフサが積載されている。工場の原料手当て計画からも、このナフサは要らないとは言えない。

 どうにかして荷揚げしなければならない。

 だが、安全第一だ。

 

 結局、荷揚げスピードを遅くして、時には止め、振動がパイプラインの損傷をもたらさないように監視しながら、ゆっくり荷揚げするしか方法がなかった。

 OPCのエチレンセンターには、2週間に1度くらいのペースでナフサ積載タンカーが入港してくる。泉北港には他にも製油所や製鉄所、あるいはガラス製造工場など多くの大型プラントがありコンビナートを形成している。タンカーなどの大型船が連日のように入港してくる。それら他船の荷揚げ作業を優先しないと、巨額なデマレージ(滞船料)を請求されることになる。

 かくて何度も着桟、離桟を繰り返し、1か月以上かけて同ナフサ船の荷揚げを行ったのだった。

 

 のびパパは4回ほど、立ち合うことになった。

 なぜか週末にかかることが多かった。5月は結局、毎週末、大阪泉北出張を繰り返すことになった。週末全滅である。

 のびパパにとっての第一子が翌月に生まれる予定だった。「これが宮仕えというものか」とのびパパは天を仰いだ(ような気がするが、生来能天気なので…)。

 

 毎週末、東京駅で崎陽軒のシウマイ弁当を求め、新幹線に乗り込んだ。あの頃の新幹線は、新大阪まで4時間以上かかった記憶がある。在来線に乗り換えて、泉北港近くのOPC事務所に着くのはいつも午後の遅い時間だった。

 

 このトラブル解決のための週末出張には、シウマイ弁当がつきものだった。

 

 新幹線はシウマイ弁当が良く似合う。

  

 このシウマイ弁当を販売している崎陽軒の創業は、検索したところ1908(明治41)年(*1)だった。

 4代目横浜駅長が奥さんの名義で横浜駅(現桜木町駅)構内での販売権を取得し、商売を始めた。

 当初はサイダーや牛乳、餅や寿司などを駅構内で販売していたが、その後駅弁を売るようになった。だが、東京駅に近いこともあり、売れ行きは芳しくない。何か名物を作ろうと思案した。

 横浜南京街(現、中華街)を探索して歩きシューマイに目を付けた。点心職人呉遇孫を雇い入れ1年間の試行錯誤の後、ついに冷めても美味しい豚肉と干帆立貝柱を具材としたシウマイを作り上げたのだそうだ。しかも列車の中で食べやすいように一口サイズにするという工夫も凝らしている。

 1928年、昭和3年のことである。

 「虎に翼」の主人公、猪爪寅子(ともこ)はすでに中学生になっていた(関係ないけど)。

 

 それにしても崎陽軒のシウマイ弁当、ホントに美味いね。

 食べ終わって、本稿を書き進んでいたら名古屋駅が近づいて来た。

 遠い日のことを思い出しながら、隣にワイフがいることを確認する。

 あの時、生まれた娘ももう50才か。

 時はまちがいなく流れている。

 だが、シウマイの味は永久に不滅だ(と、誰かさんの真似をしてみる!)。

 

 そうだ、今度、シウマイも食べ放題だというランチバイキング(*2)に挑戦してみるか!

 

*1 崎陽軒の歩み – 崎陽軒 (kiyoken.com)

*2 ランチバイキング|亜利巴″巴″|崎陽軒のレストラン (kiyoken-restaurant.com)