(カバー写真は、文中記載しているMの葬儀が行われたMortlake Crematorium@Chiswickです)

 

 皆さんは日常的に、どんなBGM(バックグラウンドミュージック)を聞いていますか?

 

 のびパパが一番多く聞いているのがモーツアルトです。

 

 実は、こんな思い出があるからです。

 

思い出

 

 今では3冊目となった「10年日記」1冊目から:

 

〈○1999年3月16日(火)今日の午後2:45、Mが急逝した。前立腺ガンの由。本人は昨夏から知っていたらしいが、大事とは思わず、先週土曜日検査、対処療法決定のため入院し、3日後の今日…。C(注:妻、日本人)も取り乱している由 ○A社(注:トレ―デイング子会社)の今後どうするか、大問題だ。〉

 

 3月も残り少なくなり、定期的に行っている3か月ごとのランチのアポをそろそろ取らなければ、と思っていた矢先だった。

 A社のMD(Managing Director)は本社担当部の部長が兼務しており、管理するために出向者を送り込んでいたが、現地監督責任は英国三井物産石油部長ののびパパにあった。そのためMとは定期的に食事をしながら諸々の情報交換をしていたのだ。

 

 前回のランチ時のことは、10年日記に次のように記載されている。

 

〈○1998年12月14日(月)昼、Mと「Nico Central」(注:当時ウェストエンドにあったイタリアン。すでに閉店)。4Qはdisappointedの由 ○10年で10人のMDに仕えた。苦しかった91/92年に自分を支えてくれたI部長が一番忘れられない、とのこと〉

 

 ワインを片手に静かに語る、いつものMだった。

 

 のびパパは感知できなかったが半年ほど前の1998年夏、前立腺ガンに罹患していることが分かった、だがその時にはすでに手遅れで快癒の可能性は皆無だった、すべてを飲み込んでMは、密かに、妻のCにも漏らさずに自分亡き後のことを整理し、書き残していた、とA社に出向していたYから後日聞いた。

 Mは後任人事、社内の体制、事業継続の基本方針といった仕事のことのみならず、まだ小さな二人の子供を抱えているCへの財産分与、先妻とその子供たちへの金銭的援助の詳細まできちんと書き残しておいたたそうだ。

 

 Mは「BP」東京事務所に数年在籍し、帰任命令が出そうな時に某オイルトレ―デイング会社日本法人に転職した。そのときCはバックオフィスにいた。

 三井物産が1988年にMを雇用しA社を設立した時、Mのトレーダーチームの一員として参画してきた。

 その後、Mと結婚し退職。

 のびパパが12月にMとランチを共にしたときに尋ねたら、出産・育児をしながらも「トレーダー時代が忘れられないらしく、毎日株式取引をやっている」とのことだった。

 

 M逝去の約1週間後、葬儀が行われた。

 その時のことを「10年日記」に次のように記している。

 

〈○1999年3月24日(水)Mの葬儀に参列。ChiswickにあるMortlake Crematorium。30分ごとにこの日1日で10組ほどが入っていた。牧師サンが進行役で、Mの好きだった「モーツアルトのレクイエム」、「ジャングル・ワイルド」と、もう一つlight musicの間に、友人3人がスピーチ。人柄の表れたいい葬儀だった ○オレも「モーツアルトのレクイエム」を流して貰おう〉

 

 

 僕の葬儀に「モーツアルトのレクイエム」を流してもらうということは不可能だろうな。

 日本の仏式葬儀では、ご住職による読経がBGMだからだ。

 友人たちがのびパパの人となりを語ることもないだろう。

 その日、Mの葬儀と同じようにはできない。

 何といっても、のびパパの菩提寺は天台宗だからなぁ。

 

 1年後、日記には次のような記載がある。

 

〈○2000年3月16日(木)Mの一周忌。こちらにはかかる習慣はないが、TK(注:Yの後任出向者)が日本の話をしたら、皆がやろう、やろうとのことで、Mの好きだったMayfair Interconのバーに昼から集まった。(注:先妻の)息子のJらと話し込む〉

 

 すでに成人していたJは、当時タンカーブローカーをしていた。

 のびパパはタンカー用船業務の経験もあったので、話が弾んだ記憶がある。

 

 あれからすでに四半世紀が経った。

 

 Jは今、いやCは今、どこでどのように暮らしているのだろうか。

 

 仏教式でいえば、来年が27回忌だ。

 2025年3月16日、一人、家飲みをしてMを偲ぶことにしようか、モーツアルトのレクイエムを聴きながら。