京都に行きたくて、ミステリー作家柏井壽の連作『鴨川食堂』(小学館、2013年~)を読み続けている。
依頼人が思い出の食を探して貰うために京都・東本願寺そばの食堂を訪れ、父・鴨川流(ながれ)の用意するおばんさい(と流自身は謙遜していう)を食し、別室で娘・こいしに事情を説明して「思い出の食」の捜索を依頼する、というストーリーだ。
これまでに10冊が発刊されているシリーズものだが、どれを読んでも、何でもない描写に京の街並みが浮かび上がってくるのがとても嬉しい。
いいなぁ、京都。
これまでにも本日記で言及したように、小説としての設えには難が多々ある。ミステリー作家なのでストーリー作りに長けているはずなのだが、それぞれのシーンはしっかりと書かれているにもかかわらず「それは、ありえないよな」という個所が山積みなのだ。
それはそれとして、のびパパが「食探し」を依頼するとしたら何になるだろうかと考えてみた。
商社マンとして延べ21年間を海外勤務で過ごしたこともあり、訪れた国は数十か国にのぼる。もちろん、日本での滞在が最長だ。
考えたことも数えたこともなかったが、国内外でこれまでに食べたものを合計すると何食になるのだろうか。
その中で一つだけ「探してもらう」としたら何になるのだろう。
難問だ。
そもそも、なぜ「探して」貰いたいのだろうか?
『鴨川食堂』を訪れる「探し人」の動機には、それぞれ人生の思い出やこれからの一大事が絡んでいる。あるいは、人生がかかった決断の背中を後押しして貰おうとしている。
たとえば『鴨川食堂』3作目の『鴨川食堂 いつもの』(2016年1月4日)掲載の第一話「かけ蕎麦」は、「探しひと」が東京・神楽坂の一流料亭『若宮』で食べた「かけ蕎麦」を巡る話だ。
8代目能楽師の父が「後を継いで貰いたい」と望んでいることを知りつつダンサーの道を選んだ息子が、父が一流料亭であえて一見変哲もない「かけ蕎麦」を食べさせたことが気になって、グルメ料理雑誌「料理春秋」の一行広告〈思い出の食、探します〉に惹かれて「鴨川食堂」を訪れ・・・というストーリーだ。
世阿弥の〈秘すれば花〉という言葉がキーワードになっているが、ネタバレになるので詳細紹介は避けておこう。ぜひ、お読みいただきたい。
でものびパパには、探して貰いたいと思うような「思い出の食」はないなぁ。
出来るならばもう一度食べて見たい、と思う「食」はあるが、『鴨川食堂』の「探し人」のような深い思いはない。
探して貰いたい「食」というものはないし、もはや存在しないことが確かなのだが、あの経験が貴重だったな、という「食」にまつわる思い出はある。
一例を挙げれば、シンガポールのインド人街で食べたアルマイト洗面器に入ったフィッシュヘッドカレーだ。
もう二度と、あの経験はできないだろうな。
この思い出も、いつか書き残しておこう。
書きたい思い出はつきないが、特に強いのはテヘランでランチに外食しなければならない日によく、同僚みんなで行った「アルボルツ」というレストランのクビデという料理だ。
玉ねぎをかじりながら、串刺しにして焼いたラムハンバーグを、サフランライスや焼きトマトと共に食べるというものだ。
クビデは東京でも食べることができる。
検索したら、平野エミさんのYoutubeまで見つかるくらいだから、けっして珍しいものではないのだろう(*1)。
「アルボルツ」でのクビデのお供は、当然、ビールなどのアルコール類はなく「コカ・コーラ」。
革命後、どこかの企業が接収した工場で生産を継続していたのだが、ホンモノのボトルになぜか8割ほどしか入っていないが、それでも「コカ・コーラ」。
原液も輸入禁止のはずだから「もどき」なのだが、あの甘さがクビデにはマッチしていた。
ちなみに「アルボルツ」とは、テヘランの北側に連なる山脈の名前でもあり、標高5,642mの高山の名前でもある(エルブルズとも呼ぶ)。
今も基本的には同じだろうが、のびパパが2年間を過ごした1990年代末のイランでは、外国人ビジネスマンに対する尾行、盗聴、検閲は常識だった。のびパパはスパイ嫌疑を恐れて、カメラも持参しないようにしていた。
クラブハウスでテニスをしての帰路、暑いのでテニスパンツのまま車に乗っていたら、隣を走るオートバイのイラン人に睨まれたような気がした。運転手が「アガー、膝にタオルを・・・」と言ってくれたので、あ、そうかと気が付いたこともあった。
外国人にとって、きわめて生活し難い環境だったのだ。
われわれ外国人は小さくなって、イラン人の生活を邪魔しないように気を使って毎日を過ごしていた。
のびパパが勤務していたイラン三井物産も、他の日系企業同様、邦人社員のためにクラブハウスを用意していた。ランチもデイナーも、邦人社員は会社からクラブハウスに移動して食べていた。イラン人と結婚していて、以前に他の日系企業でコックをしていた経験のあるマリアという名のフィリピン人女性に「日本食めいた」ランチとデイナーを用意して貰っていたのだ。
のびパパが赴任してすぐの頃、チキンカツ定食の「汁物」としてラーメンが出て来て驚いたことがある。自分は一口も食べない日本食を用意しているマリアにとっては、ラーメンも汁物だったのだ。
いや、驚いた。
イランでは金曜日が安息日だ。だから木、金がいわゆる週末にあたる。企業も役所もおおむね、木、金を週末の休みにしていた。
クラブハウスのコック、マリアも木、金が休みだった。
のびパパが業務上、つき合いの深かったイラン国営石油(NIOC)でも、国際部門は木曜日を営業日にしていたが、他の部門はすべて木、金を休みにしていた。
だが、本社が営業中なので、イラン物産の邦人スタッフは木曜日もだいたい出勤していた。
マリアが休みなので、木曜日はクラブハウスでランチを食べられない。外食をしなければならない。
当時、テヘランにはわれわれ外国人がまずまず食べられるレストランは非常に少なかった。その中で、比較的日本人の舌にも受け入れやすい「アルボルツ」に出掛けることが多かったというわけだ。
当時の邦人仲間とは、今でも「イラン会」と称して定期的に集まっている。集まれば、当然昔話に花が咲く。必ず「アルボルツ」のクビデも話題に上る。
一度、イラン料理を出すレストランで「イラン会」をやったこともある。
だが、そこで出されたクビデは、似て非なるものだった。何よりも、我々の「苦労」というスパイスが欠けているのだ。
イラン勤務から戻ってすでに20数年が経過している。
のびパパはテヘラン以外に、ロンドン、ニューヨーク、バンコク、香港、台湾などで勤務をした。当然、時を、経験を共有した仲間は多くいる。だが、今でも定期的に集まっているのは「イラン会」だけなのだ
やはり生活も、仕事も、きわめて困難な環境の中で共に過ごしたので、いわば「戦友」という意識があるのだろう。
また、4月初旬に集まる予定だ。
今度はどんな話に花がさくのだろうか。