Wakeのブログ -26ページ目

私は?

いろんな境界を無くして、離れて見たり、近くで見たりすると、認識てきるのは別物になる。


森を観て、
木と認識するか?
葉っぱと認識するか?
リスと認識するか?
キノコと認識するか?
茎と認識するか?
根と認識するか?
花と認識するか?


構成している一部と認識するか?
集合体として認識するか?
で大違いだ。


でも、私は?
目なのか?
手なのか?
耳なのか?
・・・


私の目、私の耳、私の鼻、私の口、私の心、私の意識、私の無意識、私の魂、DNA、細胞、記憶、遺産、遺言、墓・・・


どこまで失ったら私じゃなくなるのかな?


仮に私も集合体だとしたら?


私は本当に存在するのか?


いつ生まれた?

いつ死ぬのか?

判断出来ない

師匠からの「判断出来ないという事をさとる」という課題に対して、自分自身が「判断できている」という根拠が自分の中で崩れた。


例えば、「灰色」と判断した後に

近くで見たら「黒色」に見えるかもしれない。

離れて見たら大半が「オレンジ色」で一部分が「灰色」に見えるかもしれない。

もっと離れたら「虹色」かもしれない。

裏があると知らずに、裏側に回って見ると「真っ白」に見えるかもしれない。


実は上があったり、下があったり、側面があったり、内側があったり、それが一つでは無かったり、増減していたり、時間の経過で変化したり・・・


そんな事を思うと「全てを見通してみると」なんて、何をもって「全を見て判断した」と証明できるのか?


そんな判断の不確かさを自分の記憶に当てはめると、自分が「犯人だっ!」と判断していても、頭の中で勝手に「犯人はこの中に居る」という誤認識した判断で、実は自分が全く知り得ない「真犯人」がいるのかもしれない。



自分は全てを認識できて「判断できた」事は、過去に一度も無かったとしたら?


過去の苦しみに対しても、もしかしたら「判断できていなかった」という事になると、過去の「苦しみ」は誤解である可能性が否定出来ない。


終ったと思って結果だと判断した事も、実は終わっていなくて千年後に結果がでるかもしれない。


だから「判断出来ない」


過去と「判断したきた事」は今かもしれない。


確かなモノとは?

「優しくありたい」「優しくされたい」という願い。

過去の自分の心の傷には、「皆に笑顔を」「悲しみから少しでも救ってあげたい」と、誰かの為じゃ無く、自分の願いの為に「優しくありたい」という思いを認める事はできた。



そして、相手からも「優しくされたい」という思いがある。




でも、その「優しくありたい」という思いは利用されて踏みにじられるばかり。



わからない。



「優しくありたい」という思いと、「優しくされたい」という思いは矛盾しているのか?


目の前で苦しんでいる人が自業自得だったとしても、理屈抜きで助けたくなる。


その相手を見捨てるのも苦しい。


でも、助けた相手が優しさを利用して、優しさを踏みにじられる事も苦しい。


どちらに転んでも「苦」なのだろうか?


そもそも矛盾しているのか?