私は?
いろんな境界を無くして、離れて見たり、近くで見たりすると、認識てきるのは別物になる。
森を観て、
木と認識するか?
葉っぱと認識するか?
リスと認識するか?
キノコと認識するか?
茎と認識するか?
根と認識するか?
花と認識するか?
構成している一部と認識するか?
集合体として認識するか?
で大違いだ。
でも、私は?
目なのか?
手なのか?
耳なのか?
・・・
私の目、私の耳、私の鼻、私の口、私の心、私の意識、私の無意識、私の魂、DNA、細胞、記憶、遺産、遺言、墓・・・
どこまで失ったら私じゃなくなるのかな?
仮に私も集合体だとしたら?
私は本当に存在するのか?
いつ生まれた?
いつ死ぬのか?
森を観て、
木と認識するか?
葉っぱと認識するか?
リスと認識するか?
キノコと認識するか?
茎と認識するか?
根と認識するか?
花と認識するか?
構成している一部と認識するか?
集合体として認識するか?
で大違いだ。
でも、私は?
目なのか?
手なのか?
耳なのか?
・・・
私の目、私の耳、私の鼻、私の口、私の心、私の意識、私の無意識、私の魂、DNA、細胞、記憶、遺産、遺言、墓・・・
どこまで失ったら私じゃなくなるのかな?
仮に私も集合体だとしたら?
私は本当に存在するのか?
いつ生まれた?
いつ死ぬのか?
判断出来ない
師匠からの「判断出来ないという事をさとる」という課題に対して、自分自身が「判断できている」という根拠が自分の中で崩れた。
例えば、「灰色」と判断した後に
近くで見たら「黒色」に見えるかもしれない。
離れて見たら大半が「オレンジ色」で一部分が「灰色」に見えるかもしれない。
もっと離れたら「虹色」かもしれない。
裏があると知らずに、裏側に回って見ると「真っ白」に見えるかもしれない。
実は上があったり、下があったり、側面があったり、内側があったり、それが一つでは無かったり、増減していたり、時間の経過で変化したり・・・
そんな事を思うと「全てを見通してみると」なんて、何をもって「全を見て判断した」と証明できるのか?
そんな判断の不確かさを自分の記憶に当てはめると、自分が「犯人だっ!」と判断していても、頭の中で勝手に「犯人はこの中に居る」という誤認識した判断で、実は自分が全く知り得ない「真犯人」がいるのかもしれない。
自分は全てを認識できて「判断できた」事は、過去に一度も無かったとしたら?
過去の苦しみに対しても、もしかしたら「判断できていなかった」という事になると、過去の「苦しみ」は誤解である可能性が否定出来ない。
終ったと思って結果だと判断した事も、実は終わっていなくて千年後に結果がでるかもしれない。
だから「判断出来ない」
過去と「判断したきた事」は今かもしれない。
確かなモノとは?
例えば、「灰色」と判断した後に
近くで見たら「黒色」に見えるかもしれない。
離れて見たら大半が「オレンジ色」で一部分が「灰色」に見えるかもしれない。
もっと離れたら「虹色」かもしれない。
裏があると知らずに、裏側に回って見ると「真っ白」に見えるかもしれない。
実は上があったり、下があったり、側面があったり、内側があったり、それが一つでは無かったり、増減していたり、時間の経過で変化したり・・・
そんな事を思うと「全てを見通してみると」なんて、何をもって「全を見て判断した」と証明できるのか?
そんな判断の不確かさを自分の記憶に当てはめると、自分が「犯人だっ!」と判断していても、頭の中で勝手に「犯人はこの中に居る」という誤認識した判断で、実は自分が全く知り得ない「真犯人」がいるのかもしれない。
自分は全てを認識できて「判断できた」事は、過去に一度も無かったとしたら?
過去の苦しみに対しても、もしかしたら「判断できていなかった」という事になると、過去の「苦しみ」は誤解である可能性が否定出来ない。
終ったと思って結果だと判断した事も、実は終わっていなくて千年後に結果がでるかもしれない。
だから「判断出来ない」
過去と「判断したきた事」は今かもしれない。
確かなモノとは?
「優しくありたい」「優しくされたい」という願い。
過去の自分の心の傷には、「皆に笑顔を」「悲しみから少しでも救ってあげたい」と、誰かの為じゃ無く、自分の願いの為に「優しくありたい」という思いを認める事はできた。
そして、相手からも「優しくされたい」という思いがある。
でも、その「優しくありたい」という思いは利用されて踏みにじられるばかり。
わからない。
「優しくありたい」という思いと、「優しくされたい」という思いは矛盾しているのか?
目の前で苦しんでいる人が自業自得だったとしても、理屈抜きで助けたくなる。
その相手を見捨てるのも苦しい。
でも、助けた相手が優しさを利用して、優しさを踏みにじられる事も苦しい。
どちらに転んでも「苦」なのだろうか?
そもそも矛盾しているのか?
そして、相手からも「優しくされたい」という思いがある。
でも、その「優しくありたい」という思いは利用されて踏みにじられるばかり。
わからない。
「優しくありたい」という思いと、「優しくされたい」という思いは矛盾しているのか?
目の前で苦しんでいる人が自業自得だったとしても、理屈抜きで助けたくなる。
その相手を見捨てるのも苦しい。
でも、助けた相手が優しさを利用して、優しさを踏みにじられる事も苦しい。
どちらに転んでも「苦」なのだろうか?
そもそも矛盾しているのか?