「創氏改名」を どれくらい知っていますか? | 備忘録

「創氏改名」を どれくらい知っていますか?

世間でまかり通っている創氏改名の通説・・・

「日本が朝鮮植民地支配の際に、皇民化政策の一環として朝鮮インから固有の姓を奪い、

日本式の名前に強制的に変えさせた。

これを拒否しようとしたものは非国民とされ、

様々な嫌がらせを受け、結局は日本名に変えた

日本では、なぜかこのような認識が真実かのようにいつのまにか浸透している。韓国ではどうですか?

ところで実際はどうであったのか



まじめに読み、感想をいただける嬉しいです。


実際の創氏改名とは。


第二次大戦、戦時中の朝鮮関係の本や資料には


1940年の創氏改名後であるにもかかわらず、日本式の名前ではなく明らかに名前を変えていない朝鮮インが少なからず見つかる。

この人達は強制的に日本名を付けられようとされても本名を通してきた人なのだろうか、

きっと日本帝国主義の創氏改名政策に最後まで抵抗した人なのだろうか、と現在の日本では多くの人がそう思うかもしれない。こんな人はおそらく今の韓国では特殊例外の民族的英雄として見られるのかもしれないと。韓国ではどのように考えられていますか?

日本名に改名しなかった人を祖父や祖母に持つ子孫は、そのことをとても誇らしく受け止め先祖を尊敬しているのですか?

日本名に改名しなかった人々は、決してごく少数の例外ではなく、わりとよくあるケースであった。

(文献での例)

◆『朝鮮侵略と強制連行』(解放出版社 1992)

[福岡県の炭坑で死亡した2名の朝鮮インの名前。]

1943年付けの死体検案書二通の写真が掲載されている。

名前は「金川成振」・「閔福仁」。後者は朝鮮名そのものである。


◆『韓国巨文島にっぽん村』(中公新書 1994)

[1942年以降戦死した巨文島出身の朝鮮イン6名の名前。]


李権熙・金村実智夫・草川明輝・二木鐘南・二木長福・金村尚眩

この6名うちの1名、李権熙は明らかに朝鮮名である。


◆『近代庶民生活誌 (4)流言』(三一書房 1985)

[憲兵司令部資料の中で記載されている「流言飛語を行なった」として検挙されたりした朝鮮インの名前。]

全49名。 (他に日本人か朝鮮インか不明の名前が5名あり)

その49名のうち、以下の9名は本名(=法律上の名前)を日本式の名前に変えていない。

南圭一・趙明鐘・河奉根・林鳳爍・李基世・張仁洙・金達順・朴鄭与・川口龍夫コト呂永根

(最後の「川口龍夫コト呂永根」とは、本名は朝鮮名のままであり、通名を日本名にしているケース)


なお、これ以外に、鄭和欽コト日高輝男・金漢寿コト金光秀雄との2名の記載があり、

この2名は、本名は日本名だが通名を朝鮮名で名乗っているケースである。

(これら以外に記載されている名前はすべて日本式の名前である。)


◆『慶州ナザレ園』(上坂冬子著 中公文庫 1984)

著者は、著書の中で、昭和一五年(皇紀2600年・西暦1940年)の小学4年生時代の思い出として、

クラスメートのなかに朝鮮イン2名がいて、そのうちの1名は中山静子と日本式の名前であったがもう一人は崔順礼という名前を変えなかったと書いている。



さまざまな資料に目を通してみれば

当時の朝鮮インが朝鮮名を本名としていた例はわりとすぐに見つかるのである。つまり、創氏改名後においても朝鮮名を通した朝鮮インは多いとは言えないが、ごく少数の特殊例外とも決して言えるものでもなく、


そしてこの歴史的事実は創氏改名が


「朝鮮インの先祖伝来の固有の姓を奪い、日本式の名前に強制的に変えさせた」という通説に対し、

大きな疑問を抱くに十分な点なのである。


なぜ、朝鮮式の名前を本名として維持している朝鮮インが少なからず存在していたのか?


そもそも創氏改名とはいったい何か?


創氏改名令の内容

 1939年(昭和14年)11月10日朝鮮総督府制令第19号で、朝鮮民事令11条の第三次改正が発布され、翌年2月に施行された内容。

(1) 氏に関する規定

(2) 裁判上の離婚

(3) 婿養子縁組みの無効・取り消し

(4) 異姓養子を認める



ちなみに俗に言われる創氏改名とはこのうちの(1)のことである。それはすべての朝鮮インに日本式の「氏」を創らせるというものであるが、これには韓国(朝鮮)での姓に関してもう少し詳しく説明する必要がある。


韓国(朝鮮)の姓は、周知のように結婚しようが何しようが変わることがない、というのが古来の慣習である。

それは朝鮮の「姓」が、父系の血縁関係を示すものであり「姓」が異なるということはその関係がないことを意味し、

「姓」を変えるということはそれを否定することを意味している。

だから朝鮮インの家庭では、

結婚した女性は嫁ぎ先とは血縁がないため、また、自分の出自の父系一族とのそれを否定できないから「姓」を変えることをしない。

従って例えば金さんという家があったとすれば、祖母は朴さん、母は李さん、兄嫁は鄭さん、妻は張さん、長男の嫁は呉さん、次男の嫁は崔さん‥‥というような具合に名前が異なってくる。

そこで大日本帝国は、一つの家の中で法律上の名前の違う人が存在するというのを、日本風に家族名として「氏」を持ちなさい、そしてその「氏」はその家で決めて届け出よ、というのが創氏改名令の趣旨である。


<二種類の創氏>

設定創氏法定創氏

届け出るということは、例えばある金さんの家では「金川」と創氏を届け出て、家族全員が「金川氏」となった。この場合を「設定創氏」と言う。氏の下の「名」の変更は任意だったようで、多くの場合は改名していない。

著作家の金賛汀(キム・チャンジョン)さんの創氏改名後の名前は金川 賛汀(かねかわ・さんてい)さんである。

ところが届け出なかった人たちがいる。

『朝鮮を知る辞典』(平凡社 1986)によれば、


届け出たのは322万戸(約80%)とあるので、創氏を届け出なかったのは全朝鮮インの約20%ということになる。


しかし創氏は法律で定められていることなので、すべての朝鮮インは創氏をせねばならない。届け出のなかった場合は、その家の戸主の姓が例えば金さんなら、その家族全員を「金」と創氏させたのである。これを「法定創氏」と言うが、これによって金さんの家では嫁に来た女性もすべて「金氏」になったということになる。


つまり1940年の創氏改名令の施行時に創氏を届け出なかった人は、戸主の先祖伝来の男系の金とか李など)権力によって法律上で強制的に「」とさせられた、ということである。


また先に例示した文献における6人中の1人49人中の9人が朝鮮名であったという割合は、創氏を届け出なかった約20%という割合に近似しており、朝鮮名を維持した者は創氏を届け出なかった者であるということの裏付けとなる。


創氏改名は

日本名を強制するものではなかった

「創氏」は、家族名としての「氏」を新たに設けることであり、先祖伝来の「姓」には変更はなかった。


朝鮮戸籍には「氏」が書き加えられたのみであり、 「姓」は抹消されずに本貫欄に残った

そして本貫欄は日本戸籍にはなく、朝鮮戸籍独特の物である。

創氏改名後はこの欄に本貫とともに「姓」が記載されることになったのである。日本が朝鮮の「姓」を抹殺したという説は明らかに誤りである。

これで創氏改名後の、あの戦時中でも朝鮮インの少なからずが朝鮮名を維持していたことを理解することが出来るだろう。そして20%という数字は全体では少数ではあるかもしれないが、この20%という数字は、「法律上の本名も朝鮮名のままである朝鮮イン」を容易に見つけることが出来る数でもあることに着目するべきでもある。





日本名

創氏改名を届け出て「日本式」の名前になったと言うが、なぜ彼らは「日本名」にしたのか。

朝鮮インの名前のままでは朝鮮インであることが丸分かりだと考える人が多かったからである。

大日本帝国時代、

多くの朝鮮インは、日帝統治を満足に受け入れていたわけでもないながら日本国民であることを良いことに中国人を堂々と見下してもいた。

実質日本統治だった満州や、中国各地で朝鮮インは「日本人」として我が物顔で振舞った。

そして伝統的に朝鮮を見下す中国人から見下されない為に日本名を名乗り朝鮮インであることを隠す朝鮮インも多くいた。


時には「日本人」になりすまし横暴も働いた。それにより現地の中国人からの朝鮮インに対する感情は良いものでもなかったのだ。

当時の、弱肉強食が当然の世界で、「日本人」であることは国際舞台の中で有利に働くことが多いことを当時の朝鮮インは理解していた。


その上で、日本内地(現在の日本国内)の朝鮮インは日本人からの差別を免れようともした。

また、純粋に大日本帝国国民としての意識を純粋に持とうとした者もいたであろう。

当時の朝鮮では、朝鮮インとしてのアイデンティティを保とうとする気持ちを持つ者が少なくなかったとしても、現在の韓国が言うような独立の気運は統治期間全体として決して高くなく、常に独立を叫ぶ者はたいてい土地を奪われた者や貧困層の、そしてその原因を日本統治によるものだと考える者たちであった。


ところで現在の韓国が言う「土地を奪われた」のというのは、法に則ってのものだった。だからこそ、その資本主義の法整備の中で富を築いた朝鮮インもいたことも事実でありそれを見落としてはいけない。サムスンの創始者が日帝時代にどのような経緯で財を成したかを知ればいいだろう。


また、創氏改名を体験した在日一世のお年寄りたちから話を聞いても、実際には創氏改名に関してほとんど気にかけておられず、ましてや屈辱とは全く感じておられない方々も多いのである。

創氏改名が「朝鮮インの固有の姓を奪い、日本名を強制した」というのは、根拠のない俗説であることは明らかである。


<創氏改名令の真の意図>


それでは創氏改名令を発した日本の意図はいったい何だったか。

それは前述の1939年朝鮮民事令改正の内容のうち、(4)の異姓養子を認めるということに典型的に表れる。


古来、朝鮮では父母や祖先に対する祭祀(チェサ)というもっとも重要な儀式は、直系男子しか行ないえない。もし妻に子供ができない、あるいは男子が生まれなかったとしたら、同族の中の他家の二・三男坊を貰いうけることはあるが、それはあくまで男系の血の繋がりのある者に限られる。


血の繋がりのない者を養子にすることは、赤の他人が祭祀(チェサ)をするのと同じことで、朝鮮ではおよそ考えもつかないことなのである。

ところが日本は、自らの(日本の)養子制度をその朝鮮においても施行した。

これは男系の血の繋がりを重視する朝鮮の家族制度を否定し、

血の繋がりつながりよりも「家」の存続を重視する日本の家族制度を導入しようというものであった。


これが分かってくると、血の繋がりを示す不変の「姓」ではなく自分の所属する家を示す「氏」を創れとする創氏改名も同じ意図からの政策であることが容易に理解できるだろう。


「朝鮮の家族制度を否定し、日本の家族制度を導入する。」これが1939年の創氏改名を含む民事令改正の日本の意図であった。そしてそれは当然、朝鮮の民族性を否定しようとするものであったかもしれない。かし日本は皇民化政策のなかで朝鮮においても日本の家族制度を行ったのであり、名前によって民族性の否定を考えたのではないということなのである。日本式の名前への改名が強制ではないという日本側の主張も、これにより幾らかは理解できるのではないかと思う


1940年の創氏改名の施行後わずか5年で朝鮮は「解放」を迎えた。

韓国では1946年10月の朝鮮姓名復旧令によって戸籍に掲載された創氏改名を遡って無効とし、

また1949年の大法院(日本における最高裁判所)で、婿養子は「公序良俗に反するので、成立当初から無効」と判決された。

これは、朝鮮民族とって日本の家族制度は「公序良俗に反する」ということであり、これを押し付けようとした日本は何と愚かであったか、と言うことである。

これに対してこちらの韓国人は「韓国における一般常識としての創氏改名」と比較してどう感じ、どう考えますか?

もしも今までの認識と全くもって異なるという人、もしくは知らなかったという人からのこれに対する感想を聞きたいと思います。

私の言いたいことは、創氏改名は強制だったが「日本式の名前を名乗ること」は強制ではなく日本式の名前への改名当時の韓国人の自主的な行動だったと言うことです。

もちろんそこには様々な面で「日本人」として生きたほうが有利という時代背景はあったものの、日本人のような名前への改名そのものは、韓国人の自主的な行動だったと言うことです。


軍人の中には朝鮮名で活躍した者も少なくありません。

そのほか一般人の当時のさまざまな名簿などを見ても朝鮮名のままの朝鮮インの名前は簡単に見受けられます。

本名を日本名に変えたが通名(=ふだんの名前)は朝鮮名を名乗る者、

本名も通名も朝鮮名のままの者、いろいろなケースがあり、

そしてどれも大日本帝国で暮らせていた事実があることを、どう受け取めますか?


今までの韓国での認識が誤っていたかもしれないと気付けば、これからはその誤りを無理に貫き通そうとせずに冷静に真実を見つめ直してみようという姿勢に変われば、それは韓国での反日教育と反日の世論のなかで「韓国での模範的な韓国人」として育ってきた皆様方にとっては、人としてとても大きな前進だと思います。


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