「……由紀、俺だよ」

直樹――別居中の夫だった。

声を聞いた瞬間、全身が強張った。
でも次の瞬間には、足が勝手に動いていた。

ドアを開けると、彼がいた。
寒さに頬を赤くして、手には小さな紙袋。
中には、私が昔好きだった、甘いココアと、あの頃よく作ってくれた手作りのスコーンが入っていた。

「痩せたな」

そう言って、彼は私を見つめた。
私は何も言えなかった。ただ、立ち尽くしていた。

「全部……聞いたよ。由紀が、どうしてたか。誰と関係してたかも」

ゆっくりと、彼は話し始めた。

「最初は……怒った。すごく。でも、なんか……違うって思ったんだ。
君が、そんなことするはずないって。
いや、もう“しちゃってる”んだけど……でも、きっと理由があるって、信じたくてさ」

彼の目は、濁っていなかった。
責めることも、蔑むことも、してこなかった。

ただ、そっと両手で私の頬を包み、言った。

「俺……まだ、君が好きなんだよ」

その瞬間だった。

張りつめていた何かが、ぷつんと音を立てて切れた。
声にならない嗚咽が、喉から溢れ出した。
膝から崩れ落ちて、彼の胸に縋った。

「ごめん、ごめん……私……私、どうしようもない女で……!
全部、壊しちゃった……!」

涙が、止まらなかった。
何年分もの後悔と痛みと、愛しさが混ざって、
呼吸ができなくなるほど、泣いた。

彼は黙って、ずっと抱きしめてくれていた。

「……もういいよ。帰ってこい。全部、俺が背負うから」

その言葉に、私はまた泣いた。
何度も、何度も、泣いた。

自分を許せない。
でも、それでもいいと言ってくれる人がいた。

それが、どれほど尊いことかを
私はようやく思い知った。

壊れた心が、少しずつ、温度を取り戻していく。
涙と一緒に、黒く濁った過去が、洗い流されていくようだった。

愛なんて、信じられなかった。
でもいま、私はようやく知った。
本当の愛は、
終わりじゃなくて、「戻る場所」なんだって。