今朝もマイナス7度とはいえ、降雪地帯の大雪のご苦労をよそに好天続きなのため、山あいの谷道を歩いて上った。
すると、谷沿いによく土地が開墾されており、一つの開墾地の端で六地蔵に出会うことができた。
素朴なお姿に隣り合って、南無阿弥陀仏などの経文が彫られた碑がいくつかある。
さて、いつの頃のものかと見ると、なんと「安政七申年」だという。
安政7年と言えば、安政の大獄の末、桜田門外の変が起こり、万延に改元された年である。
かたや、安政の始まりは、嘉永7年11月23日の安政東海地震、翌11月24日の安政南海地震に起因する。
連日の大地震は、関東から中部、近畿、四国にかけての広大な地域に、強い揺れと大津波をもたらし、各地で大被害となった。
そのため、すぐさま改元がなされたという。
(この連日の大地震は、いま発生が懸念される「南海トラフ巨大地震」のモデルである)
ところが、改元の甲斐なく、その翌年には都市直下型の安政江戸地震が発生し、江戸市中に大きな被害がもたらされた。
振り返ると、安政の7年間は災害、外交・内政の混乱、さらにはコレラの大流行などがつぎつぎと起こり、元号には似つかわしくない激動の時代だったと言える。
しかし、そんな時代にも、人力で山を開き、畑を耕し、生活を営んでいた先人がいたのだ。
疫病の終息を願ったのか、村の発展を祈ったのかは分からないが、そこで逞しく過ごした人々が確かにいたのだと思うと、感ずるものがあった。
気が付けば梅の畑の花がほころび、あちこちの民家の庭先にも小さな梅の花が見られる。
梅園にある大ぶりで目立つ花とは様子が違うけれど、梅の実を取る木の花は小ぶりだというから、きっとそれなんだろう。
何ともすがすがしい様子だった。

