その瞳 信じていつまでも 5
唇を離した俺たちは、少し見つめ合った。
「ふふっ。しょっぱい」
カズが笑ってポケットからハンカチを出して俺の涙をふいてくれた。
俺もハンカチを出して、カズの涙をぬぐった。
「そのハンカチ……」
カズが俺のハンカチを見つめる。アイボリーホワイトの生地に、緑の糸で『Masaki』と刺繍されている。
「最新バージョンの刺繍だよ。と言っても、もらったのは数年前。最近はもらってないなあ。父さんも忙しいだろうし、俺も親からハンカチ持たされる年でもないし。カズの持ってるのは、あの時の、だね?」
「うん。初めて会った時の。イルカショーでまーくんがオレに声をかけてくれた。あれから、ずっと持ってた」
カズがあの時からずっと持ち続けてくれたハンカチは、その年月を感じさせないぐらいきれいに保たれていた。
「カズがバイトに来てすぐの頃、何日かかけて水族館デートをしたよね。最後に案内したのがダイオウグソクムシで。その前で弱音を吐く俺に、カズは、“ここにいるよ”って言ってくれて、俺はボロボロ泣いたよね。カズは今みたいに、ハンカチで俺の涙をふいてくれた。その時のハンカチも……」
「これだよ」
カズが笑った。
「ごめん……気づかなくて。俺、ほんとに色々気づくの遅いよね。ささやきの回廊のカラクリもさ、最近やっとわかったし……」
「うん。まーくんからかざぽんとリケジョの彼女の話を聞いた時に、もう気づかれているのかなあって思ったよ。盗み聞きしてたこと、バレたかなあって。だから、ちゃんとほんとのこと、自分の口から話さなきゃいけないって思ってはいたんだよ。オレのついた嘘の数々を告白しなきゃって。でも、昨日あんな形で翔さんに指摘されて、いたたまれなくなって逃げ出しちゃった」
「それでここに……」
「面と向かって告白しにくかったし……。ダイオウグソクムシに話しかけてたまーくんの気持ちがよくわかったよ。この子の前って、なんか素直になれる。まーくんならここにいるオレを見つけてくれると思ってた。あの夏、オレのこと見つけてくれた人だから」
──ここならずぶ濡れになるから大丈夫!
ドルフィンスタジアムで、ぶんぶんと手を振った、あの夏の日が鮮明によみがえる。
「水族館に来てカズを探すのに、2つ候補があってさ。最初、スタジアムの方に行っちゃったよ。出会った場所だったし」
「そうか。ごめんね。想い出の場所だもんね」
カズが笑った。
「あの時、ハンカチを持っていてよかったよ。 カズの涙をぬぐうことができたから」
俺はそう言って、ハンカチをポケットにしまった。笑顔のカズには、もう必要なさそうだ。
「 それにしても、よくこんな綺麗なハンカチ持ち歩いていたよね。オレの周りにそんな男子はいなかったよ。たとえ持っていたとしても、いつからポッケに突っ込まれてたのかわかんないような、くしゃくしゃのやつだよ」
「五十嵐家の男たちはみんな、“好きな子の涙をふけるように綺麗なハンカチを持ち歩きなさい”って、母さんに言われて育ってる」
それを聞くと、カズは納得したような顔をした。
「ひろ子ちゃんって、やっぱスゴいね。でも、それって──そのハンカチって、きっと、そう言って子どもたちに持たせておいた、御守りだったんじゃないかなあって、気がする」
「御守り?」
「先生が愛情込めて刺繍したものだもん。きっと、祈りとか、願いとかも込められてる。だから、ひろ子ちゃんは、息子たちに持っていて欲しかったんだよ」
親が子に願うことなんて、ひとつだ。それは、幸せでいること。
そしてこのハンカチは、ちゃんとその役目を果たした。
俺は、急に両親に会いたくなった。
「父さん、母さんにこっぴどく叱られるんだろうなあ」
始発の新幹線で向かっている母さんは、昼前にはこっちに着くだろう。
俺は、母さんに叱られてしゅんとしてる父さんを思い浮かべた。
「先生の具合どうなの? 大丈夫?」
カズが心配そうに聞いてきた。
「病院行ってみる?」
「いいの?」
「うん、今から行こう」
と俺は頷いた。
俺たちは手をつないで、クラゲの部屋の出口へと向かった。
いつの間にか、まわりには誰もいなくなっていた。
少し不思議に思いながら歩いていると、出口付近に見覚えのある2人を見つけた。
「あれ?」
カズが声を上げた。
ヨコとかざぽんだった。
「よお! お二人さん」
ヨコがすました顔で手を上げる。
その隣で、少しかざぽんが落ち着かないようすでキョロキョロ辺りを見回していた。
「あ? 何だよ、これ?」
俺は驚いて言った。
2人のそばに、
『調整中につき、しばらくお待ち下さい』
と書かれた小さな看板が置かれていた。
「こんなのどこから持って来たんだよ?」
「倉庫にあったの思い出してさ」
かざぽんはささっと看板を脇にかかえた。
「それで人がいなかったんだ」
俺は納得した。
「ゆっくり話せたみたいだし、よかったよ」
そう言ってにっこり笑うかざぽんの腕を、ヨコが引っ張る。
「ほな見つからんうちにこれ返しに行くで!」
お礼を言う間もなく、2人は風のように去って行った。