我々聖徒が携挙される日まで、残すところあと1週間あまりとなった。皆さんは、いかがお過ごしであろうか。不安な思いに駆られている人、あるいは悪霊からの攻撃を受け、過去の出来事への羞恥心や罪悪感に苛(さいな)まれている人も少なくないだろう。今回のブログでは、これらの対処法も含め、携挙前の最終チェックとして、携挙を妨げるであろう「5つの罪」について考察してみたいと思う。
かつて主イエスは弟子たちに、麦(聖徒)を天の蔵に、毒麦(罪人)を燃え盛る炉の中に投げ捨てる「終わりの日」に、不法を行う者は救わないことを明確にしている。
| 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」 『マタイによる福音書』7:21-23 |
この聖句からも明らかなように、たとえ福音(ふくいん)を受け入れた信者であっても、父の御心を行わず、不法を行う者は天に上げられず、地獄に落とされるのである。後者の人々には、「永遠の火の刑罰」が待っていることだろう。これは信者にとっても、何ともショッキングな事実ではないだろうか。昨今のキリスト教界隈における風潮としては、福音を受け入れたクリスチャンであれば、漏れなく救われると説く「救いの永久保証」が一般的である。しかし、聖書の真実を紐解くと、実はそうではないことが分かるのである。
なお、福音を知らない人のために説明しておくと、福音とは、神が人類救済のために主イエスを地上に遣わし、主イエスが人類の罪を贖うために十字架上で死なれ、墓に葬られ、三日目に蘇ったという事実を信じることで、「永遠の命」を頂いて救われるという「良い知らせ」のことである。神は我々人類が原罪のために、次々と地獄に落ちていく事実に心を痛め、愛に基づいた人類救済措置を取られたのである。
さて、上の聖句の中で述べられている「父の御心」と「不法」とは何だったのであろうか。「父の御心」については最後に明らかにするとして、まずは携挙を妨げるであろう「不法」、すなわち「人類を地獄に導く罪」について、以下に5つ挙げてみたいと思う。
1.世俗への執着
まず一つ目の不法として、「世俗への執着」を挙げてみたい。聖書には、世俗の代表格である「お金」にまつわる寓話は随所に見られるが、その中でも以下の聖書箇所を見てみよう。
| 「イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。『はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』」 『マタイによる福音書』19:21-24 |
この聖句では、お金へ執着することの弊害が述べられている。我々が救われるためには、決して世を愛してはならず、全財産を投げうって出家し、主イエスのしもべとして仕えるほどの「絶対的な従順さ」と、「この世への未練」を断ち切る必要があるのである。
| 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」 『ルカによる福音書』14:26, 33 |
お金に限らず、家族や異性などの人間関係、あるいはそれまで培ってきたキャリアなども含め、世俗的な価値観に縛られている間は、どんな人であっても救われないのである。我々はお金や快楽などの世俗的な関心事ではなく、常に神を第一優先にして、日々「聖なる生活」を送らなければならないだろう。これには毎日(できれば朝昼晩の3回、+α)祈りを絶やさず、聖書も欠かさず読み、かつ聖霊に満たされ続けることで、自ずと世俗的な価値観の優先順位が下がっていき、神が第一優先事項になっていくことだろう。
| 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 『マタイによる福音書』6:24 |
なお、聖霊に満たされ続けるためには、まず主イエスを救い主として受け入れ、主イエスに聖霊を送って下さるよう、跪(ひざまず)いて粘り強く祈り続けなければならない。
2.傲慢さとプライドの奴隷
次に二つ目の不法として、「傲慢さとプライドの奴隷」を挙げてみたい。このことに関連するたとえ話として、以下の聖書箇所を見てみよう。
| 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 『ルカによる福音書』18:9-14 |
傲慢さを持ち合わせた象徴的な人物として描かれているこのファリサイ派は、自分に出来て他人に出来ないことを自慢し、他人を見下して生きていたようだ。また、虚栄心や傲慢さからくるプライドも高かったことが伺えるだろう。プライドが高い人間は、常に他人と自分を比較し、優越感を感じたり、逆に劣等感に苛(さいな)まれながら、常に心の中で葛藤を繰り返している存在である。結局、このファリサイ派は神によって義と認められず(神と和解できず)、地獄に落とされたとのことであった。
一方、徴税人はその当時、人々からは卑しい罪人と見られていた存在であったが、神の前でヘリ下り、自らの罪を認める謙虚さを持っていた。神に義とされ救われたのは、言うまでもなく徴税人の方である。我々は聖霊に満たされ続けることで、この厄介なプライド感情を克服することができるだろう。
3.性的不品行
次に三つ目の不法として、「性的不品行」を挙げてみたい。これに関連する聖書箇所として、以下を見てみよう。
| 「みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」 『コリントの信徒への手紙一』6:18-20 |
他人を傷つけるような外的な罪は分かり易いと言えるが、性的不品行のような内的な罪は、ともすれば誰にも迷惑をかけていないという点において、罪の意識が芽生えにくいという問題がある。しかし、神の視点から見ると、これは「聖霊が宿る神の宮」を汚(けが)したという点において、大罪なのである。
キリスト信者はすべての人が主イエスの体の一部である。だが、その中の一部が腐ると、全体にも波及してしまうため、主イエスの体から切り離されるのである。すなわち、「神の義認」が得られず、地獄へと直行してしまうのである。我々は一瞬の快楽を安易に追い求めることで、永遠の命を失わないようにしなければならない。
この罪は肉体的な罪であるため、聖霊に満たされただけでは対処できない場合も多いと夢想している。この罪を克服するには、かつて公生涯に入られる前の主イエスが荒野で行ったような「断食」が有効であろう。性欲と同じ肉体的な欲求を抑えるという意味で、効果があるようである。
あとは、絶えず祈りを通して、主イエスに依り頼むことで、この罪を克服することができるだろう。誘惑を感じたら、即座に祈り求めることが大切である。また、この罪の特徴として、日常生活の中で意図せず犯してしまうことも多い罪なので、必ず就寝前に悔い改めの祈りをすることが大切である。なお、断食とともに、人類救済の「とりなしの祈り」をすることで、自らが神の生贄となり、神の御怒りを和らげることができると考えている。
4.赦しの欠如
次に四つ目の不法として、「赦しの欠如」を挙げてみたい。これに関連する聖書箇所として、以下を見てみよう。
| 「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」 『マタイによる福音書』6:14-15 |
過去の傷ついた経験がトラウマとなり、他人を赦せない人は多いことだろう。特に携挙前の今の時期においては、悪霊からの攻撃によって、フラッシュバックで苦しむ人は意外にも多いのではないだろうか。だが、これも聖霊に満たされ続けることと、トラウマを感じたら即座に祈りを通して主イエスに依り頼むことで、徐々に改善されていくだろう。
5.愛の欠如
最後の五つ目の不法として、最も重いであろう罪を挙げてみたい。それは「愛の欠如」である。愛には神への愛と隣人愛があるが、神への愛が一番であり、隣人愛はその次である。
| 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」 『マタイによる福音書』6:33 |
最近のキリスト教界隈では、とかく携挙預言の是非について論じられているようだが、それよりも大切なのは「愛」である。携挙直前の今であるからこそ、キリスト教の原点である「愛」に立ち返るべきである。
| 「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 『コリントの信徒への手紙一』13:2-9, 13 |
聖霊に満たされることで、心に愛が溢れ、自ずと愛の実践は可能になっていくだろう。聖霊に満たされることで、生まれ変わることができるのである。我々は賢い乙女のように、ランプ(心)から「聖霊の油」を切らさないようにしなければならないのである。
以上5つの不法について、我々は思い当たる点については日々悔い改めなければならない。また、主イエスが行った「血の贖い」と「肉体の復活」の御業(みわざ)を信じることで、神との和解を果たすことができるだろう。これが「神に義とされる」ということなのである。福音とは、一度受け入れたら救いが永遠に保証されている「免罪符」ではないため、油断せずに祈り続けなければならない。
さてここで、最初に紹介した聖句に戻ってみよう。『マタイによる福音書』7章に登場する「天の父の御心」とは何を指していたのであろうか。次の聖句を参考にしてみたい。
| 「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆、永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」 『ヨハネによる福音書』6:38-40 |
天の父の御心とは、キリスト信者が終わりの日に復活し、その後も永遠に生き続けることである。主イエスを通してしか、神と和解することはできない。主イエスは道であり真理であり、命であるからだ。御父(みちち)の愛と憐(あわれ)みによって、この御子(みこ)が地上世界に遣わされたのである。御子イエスは、人類への愛ゆえに喜んでご受難を受け入れ、御父の御心(みこころ)を成し遂げたのである。我々は、この神の無償の愛を感謝をもって受け入れ、この真実を他の人々にも伝えていかなければならないだろう。
かつて主イエスは、我ら人類の罪を取り除くために、十字架上の死をもって、贖って下さったのである。我々はこの事実を信じることにより、人類の既定路線であった「地獄行き」を回避して頂けるのである。さらに、主イエスの復活を信じることで、「永遠の命」を頂くことができるだろう。
御父と御子イエスの愛の思いと御業(みわざ)に対し、愛と感謝をもって祈りと賛美を捧げよう。
感謝をもって、御子イエスを救い主として受け入れよう。
これまで世俗への執着に囚われ、御父と御子イエスをないがしろにしてきた罪を告白し、悔い改めよう。
それ以外の不品行、不道徳、偶像崇拝の罪を告白し、悔い改めよう。
最後に...我々にはまだ、これから起こる「暗黒の3日間」と、その後の携挙を迎える準備ができていない。すなわち、悔い改めが足りないということである。悔い改めるということは、それまでの罪を悔いて、二度と繰り返さないと心に決め、祈りと聖書を中心とした「聖なる生活」を心掛けるということである。聖霊の内住により、心が喜びで満たされてきたら、罪が赦されたと判断してもいいかもしれない。
暗闇の期間は完全ロックダウンであり、神の御怒りが吹き荒れる窓の外を見てもならない。さらに気温がマイナス55℃まで下がるので、防寒準備が必要である。この期間は、かつて主イエスが十字架上でご経験された「神との断絶」を、地球レベルで追体験するのである。聖書には、主イエスと神との断絶が始まった正午から3時間の間、全地が暗闇に包まれたと記されている。これは終末の予表であったのである。
この期間は、家の中でロウソクに火を灯し、「詩篇91篇」または「ロザリオの祈り」を唱え、祈りとともにひたすら神に赦しを請わなければならない。かつて十字架上で神に見放された主イエスの苦悩は、どれほどのものであったであろうか。我々には計り知れない。我々信者の信仰心は、燃え盛る炉の中で信仰を貫くことによって、本物の信仰へと変えられるのである。
暗闇が明けた4日目には携挙という救いが待っているだろう。この機会を逃してしまったら、地獄の7年患難を過ごさなければならなくなるのだ。さらに反キリストが台頭してくれば、キリスト教が禁止となり、このブログも強制的に閉鎖させられるだろう。アメリカではトランプ大統領の後援者が暗殺されたように、キリスト教徒への迫害は、すでに始まっているのである。
もう間もなく、我々聖徒の頭上に終わりのラッパが鳴り響き、天に引き上げられ、主イエスとお会いできるだろう。歓喜の涙が全ての苦悩を取り去ってくれるだろう。皆さんとは、天で催される「子羊の婚宴」でお会いしたいと思っている。
さぁ、今こそ悔い改めて、携挙に備えよう!
| 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ。」 『詩編』100:1-5 |
今回は以下の動画を参考にさせて頂いた。携挙前の最終セルフチェックの意味も兼ねて、ぜひご覧になって頂ければ幸いである。
なお、祈り方については、以下の過去ブログも参考にしてほしい。
ぜひダウンロードして活用してほしい。
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