前回の記事では「聖霊の内住」について述べさせて頂いたが、今回はそこからさらに一歩進めて「聖霊の満たし」について述べてみようと思う。この両者は、ともすれば混在され易い立場ではあるが、実は似て非なるものであり、本質的に意味と目的が異なるのである。「十人の乙女」のたとえ話(マタイ25:1-13)にもあるように、最終的に「聖霊の満たし(充満)」の状態になければ、「永遠の命」という救いにあずかることはできないと考えている。では、「内住」と「充満」の違いは何なのであろうか。
まず、「聖霊の内住」とは、人がイエス・キリストを救い主として信じたとき、聖霊がその人のうちに宿ることである。
| 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」 『ヨハネによる福音書』14:16-17 「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」 『エフェソの信徒への手紙』1:13-14 |
すなわち、聖霊の内住は「救いの印」であり、主イエスを信じた瞬間に、神がその人を「わたしのもの」として証印を押すことになるのである。
これに対し、「聖霊の満たし」とは、信者が日々、聖霊の導きと力に従い、心と思いが御霊に支配されている状態である。これを「主イエスによって、聖霊のバプテスマが授けられた状態(『栄えに満ちた喜び』ロイド・ジョンズ博士)」と言い換えてもいいだろう。この状態になるためには、神の御言葉への従順、祈り、罪の告白と悔い改めが必要になってくるだろう。
| 「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。」 『エペソ人への手紙』5:18 |
ここで使われている「満たされなさい」という言葉は、ギリシア語で「継続的な命令形」が使われているようである。つまり「一度で終わることではなく、日々継続しなさい」という意味が含まれているのである。結果として、神の力と喜びに満ちた信仰生活を歩めることになるだろう。
このように「聖霊の満たし」は、日々聖霊を求め続けることで、「聖なる生活」を歩むための原動力となるものである。では次に、どのようにすれば「聖霊の満たし」の状態を保てるかを、具体的に見ていくことにしよう。
まず第一に「罪を悔い改め、心を清める」を挙げてみたい。聖霊はその名の通り「聖い霊」である。我々が罪を放置すると、聖霊は悲しまれ(エペソ4:30)、聖霊の力が働かないのである。毎日の祈りの中で、自分の心を点検し、神の御前で正直に罪を告白し、主イエスの血潮により赦しを受けることが大切である。(1ヨハネ1:9)
なお、ここで言われている罪とは、性的不品行や飲酒を含むあらゆる依存症、あるいは偶像崇拝のような創造主以外の神を拝むこと、または怒りや強欲などの内面に関する罪も含まれるだろう。「モーセの十戒」を思い出してほしい。
また、これらに加えて「自己中心的な思い(エゴ)」や「プライド」、あるいは「他人を赦せない思い」などは、聖霊の満たしの妨げになるため、ここで躓(つまづ)いている人は「悔い改め」が必要になるだろう。
| 「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえ(主イエスの血の贖い)は、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。」 『ヘブライ人への手紙』10:26-27, 29 「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないで下さい。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えて下さい。」 『詩篇』51:12-14 「神は高ぶる者には敵対し、へりくだる者には恵みをお授けになる。」 『ヤコブの手紙』4:6 |
第二に「自分の思いを神に明け渡す」を挙げてみたい。「聖霊に満たされる」とは、自分の主導権を神に委ね、従順になることである。すなわち、「自分の意志で生きる」より、「御霊に導かれて歩む生き方」を選ぶのである。また、良心の咎(とが)めを感じたら、すぐに立ち止まる姿勢が大切である。
神に自分の全てを明け渡せるようになるためには、プライドを捨て去る必要があるだろう。だが、なかなか捨てられない人も多いと感じている。これは、「神中心」の生き方ではなく、「自己中心」で生きているためである。人生における挫折や苦難を通して、自分の無力さを悟った時、プライドやエゴが削ぎ落とされ、初めて心から神に委ねる心境になれるのである。
「自分の力に頼らず、神に委ねる生き方」とは、ある意味で「幼子のように生きる」ということである。何かを決めるとき、あるいは祈りの中で「主よ、あなたの御心は何でしょうか」と尋ねてみよう。また、不安や怒りやトラウマを感じたら、すぐに神に委ねる習慣を持とう。(ピリピ4:6)
| 「はっきり言っておく。幼子のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 『マルコによる福音書』10:15 「もし御霊の導きによって歩むなら、これからも御霊によって歩みなさい。」 『ガラテヤ信徒への手紙』5:25 「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」 『詩編』62:6-9 |
第三に「御言葉に満たされる」を挙げてみたい。御言葉とは聖書の言葉である。聖霊は、神の言葉と共に働く霊である。「御霊に満たされる」とは、「御言葉に満たされる」ことと同義である。毎日少しでも聖書を読み、神の思いを心に刻もう。また、御言葉を暗唱し、祈りの中で繰り返すことを習慣づけよう。
| 「キリストの言葉が、あなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい。」 『コロサイ信徒への手紙』3:16 |
第四に「感謝と賛美の生活」を挙げてみたい。小さな恵みにも感謝する習慣を身に付けよう。また、賛美歌や祈りでの賛美を通して、心を神に向けてみよう。感謝と賛美は、聖霊が喜ばれる雰囲気をつくりだすのである。
| 「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神を褒め称えなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」 『コロサイ信徒への手紙』3:16-17 |
第五に「祈り続けること」を挙げてみたい。聖霊に満たされる鍵は「祈り」である。かつて弟子たちが、ペンテコステの日に聖霊に満たされたのも、祈っていた時であったことを思い出そう(使徒2章、4章)。朝、出かける前に「今日も聖霊に満たして下さい」と祈ってみよう。また、日中も心の中で「主よ、導いて下さい」と呟いてみよう。このように絶えず祈りながら、神に聖霊を求め続ける姿勢が大切である。
| 「絶えず祈りなさい。」 『テサロニケ信徒への手紙一』5:17 「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 『ルカによる福音書』11:13 |
最後に、第六として「愛と奉仕の実践」を挙げてみたい。聖霊とは、ただ「感じる」存在ではなく、「愛と奉仕の力」を与える存在である。聖霊に満たされると、他人を裁くよりも、赦しと憐れみの心が増し加わってくることだろう。愛は最も確かな「満たしの証」である。
聖霊に満たされることで、自ずと神への愛が深まり、人に対しても愛に基づいた行動がとれるようになるだろう。「主に仕える喜び」を覚え、人にも仕え、人を助けよう。「良きサマリア人」のたとえ(ルカ10:25-37)を思い出してほしい。困難な状況にある人に対し、憐れみの心で奉仕できるようになろう。絶えず愛のある言葉を語りかけよう。祈る際は「執り成しの祈り」を取り入れよう。
| 「御霊の実は、愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制です。」 『ガラテヤの信徒への手紙』5:22-23 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 『ヨハネによる福音書』13:34–35 「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』」 『ルカによる福音書』10:25-28 |
このように、聖霊の満たしは「霊的な特別な体験」だけではなく、日々の信仰と従順の歩みの中で深まっていくものである。主に心を明け渡すほど、聖霊はあなたがたの内に力強く働かれるだろう。
聖霊の満たしが進んでいくと、愛に溢れた人生を歩めるようになり、富や快楽などの世俗的な関心事も薄れていくことだろう。このように聖霊に満たされている人は、この世にありながらも、新たな命を頂いて生まれ変わった人であり、すでに「神の国(御国)」の住人であると言えるだろう。
| 「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの内にあるのである。」 『ルカによる福音書』17:20-21 |
以下の動画は、すべてを神に委ねる生き方を説いた動画である。ぜひ参考にしてみてほしい。
以下は本記事に関連した推奨動画である。こちらも参考にしてみてほしい。
最後に...天界では今年2025年の7月をもって、すでに「第一の封印(黙示録6:1)」が開かれたと考えている。これから、2029年9月のシュミータ(7年に一度訪れる安息年)の年まで、患難時代が続くことになるだろう。来年2026年のワールドカップ(サッカー)は、世界的な大混乱のため、開催されないと予測している。患難時代の末期に主イエスは再臨し、「終わりの日」を迎えた後に千年王国は始まるだろう。
患難時代に起こる出来事は、世界規模の核戦争(WW3)、反キリストによる独裁政治、経済破綻、火山噴火、大地震、疫病、飢餓、食人・殺人の横行、津波、海面上昇による陸地の水没、隕石落下、火と硫黄の雨、巨大なヒョウ、暗黒の3日間 etc...これらは彗星接近の引力による影響と、ポールシフト(地軸移動)が関係してくるだろう。また、巨大な宇宙船が天空に現れ、悪霊エイリアンの襲来もあるだろう。
我が日本は、北と南から外国に侵略され、最終的には海面上昇により水没するだろう。全ては「神の裁き」である。その理由は、創造主以外の偶像崇拝、人々の愛の欠如、不品行・不道徳・姦淫・殺人・堕胎などが横行したためである。主イエスに忠誠を誓うことをせずに亡くなる多くの者は、漏れなく地獄行きとなり、「永遠の火の刑罰」の中で、苦しみ続けることになるだろう...
携挙は今年から2026年までには起こると予想している。(奇しくも2025年12月21日の冬至の日は、イスラエル建国日(1948/5/14)から、77年7ヶ月7日後にあたり、さらに「神の暦」と噂されるエッセネ・カレンダーでは、9月23日に相当するようである。この日から30日以内が最も有力だろう。)すでに「恵みの時代」も終わりかけており、我が「警告者」としての使命も終焉を迎えつつある。よって、当ブログも一旦終了させて頂くことを、ご了承頂ければ幸いである。縁があれば、また皆さんとお会いできるだろう。
皆さんの祝福をお祈りして...アーメン
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