鍋の位置を直しながらガスコンロのスイッチを押す。唸り声のような鈍い音の後にポッと青い火がついた。

薄いマットのみのキッチンにスリッパ無しで立つと、つま先から血が冷やされていく。ふくらはぎが強張った。鍋にかざした手は暖かい。もうちょい。指先を温めてから包丁を取り出して、櫛切りの玉ねぎを微塵に刻み始めた。苦手だから。微塵切りにして炒めて炒めまくって、ドロドロ酢豚のトロミに紛れさせれば食べられる。

十分熱が広がった鍋に油を引いた。玉ねぎを入れて油と混ぜる。肉がない。冷蔵庫を開けると衣をつけて揚がった豚がちゃんと現れた。母さんいつやってんだか、こうゆうこと。

先にニンジンを入れて大きく音が上がった。玉ねぎはうまそうな茶色に変わった。手早く鍋に肉と酢豚の素を合わせて、トロミが強くなったのを確認してから火を止めた。

 出来たのは、赤一色の酢豚丼。皿片すの楽だから。

サクミに食わせられるレベルだろうか。母さんは毎晩褒めもせず文句も言わず食べている。

今日だって、玉ねぎの形が変わっていようと何も言わないだろう。

 いつだって、母さんは何も言わない。というか、余計なことは言わない。言葉は薬と同じで過剰摂取は良くないのというのがポリシーだ。言葉は実体を持たない分、遠慮なくスーと心臓まで入り込んで、動脈に乗って身体中に行き渡る。熱くしたり寒くしたり、時に結晶化して循環器系統を犯しさえする。サクミを思うとキュッとなるだろ、胸が、キュッと。あれって、これまでサクミからもらった言葉が胸に痞えて結石みたく成長して、たまに揺れて粘膜を刺激して起こるんだ。

母さんは語りたくないことが人一倍多い。俺、子どもだからそれくらいわかるよ。でっかい結石が砕かれることなく潜んでいる。たぶんね、俺、母さんが産んだんじゃなくて病院から連れて来られた子どもなんだ。シングルマザーの母親が、乳幼児専門の病室に勤めていたらそう思うだろ?母さんは俺の疑問に気づかないふりして語ることはない。いいよどっちだって。教えてくれるなら聞くし、教えてくれないならこのままでいい。頭使わなきゃいけないこと他にもたくさんあるからさ。

机には日本史の問題集が開かれている。昨日は藤原氏の他氏排斥。今日はその次から。そうだ初詣は湯島天神へ行こう。できればサクミと一緒に。

蛇口をひねって、桶に水を溜めた。丼から手を離すと浅い底へ静かに落ちて行った。

「ただいま」

声が響き、それだけだった。まだ母さんは帰って来ない。少なくともあと4時間は俺一人だろう。

冷蔵庫から牛乳を出し、マグカップに注いで一気に飲み干した。もう一杯、今度は電子レンジで温め1分セット。その間にと、自分の部屋へ入った。鞄を床に落としベッドに倒れ込む。ポケットから携帯を取り出して画面を眺める。サクミの笑顔が現れた。

俺も笑顔になる。一人だからこそなれる種類の笑顔に、憚ることなく存分になれる。

「おかえり。ただいま」

今度サクミを夕飯に誘ってみようかな。いつも俺、夕飯一人だから。

母さんは大学病院のNICUに勤務している。早産の赤ん坊のための集中治療室だ。家ではあまり仕事の話をしない。過去最小の胎児500グラムしかない超未熟児を扱って、助かったら奇跡と言われていたから無事に治療室から送り出せたときは神に感謝したって話聞いたっけ。

小学生の頃は、母さんが俺をおいて他の赤ん坊ばかりかまっているかと思うとムカついたけど、同級生の母親の話聞いていて俺母さん見直したわ。そんなこと口にはしないけどね。母さんがサクミに会ったらなんて言うかな。可愛い子じゃないのとか言ってくれるのかな。

しかしうるさい。電子レンジがさっきからずっと鳴っている。温めたものを取り出すまで延々と鳴り続けるのだ。はいはい出してやりますとも。マグカップを回収し勉強机の上に置いた。時計は5時半を指していた。

夕飯に誘いたいけれど、俺はサクミをまっすぐ家に送る。机の上には開きっぱなしの英語の問題集が、今日のノルマだよと自己主張している。俺たち受験生なんだ。1月には私立高校の受験が控え、また公立高校の推薦入試も待っている。もっと一緒に居たいけれどサクミの邪魔をしたくない。なによりしつこくして嫌われたくないし。

この点では俺、冷静だと思う。

今日の夕飯は酢豚だ。母さんによって、永谷園の酢豚の素と、切った人参と玉ねぎがテーブルに用意されていた。小学生のころは最終形態まで用意して置いておいてくれたけど、中学に入ってからは俺にも少し包丁や火を扱わせたいみたいで、あと一歩のところで準備を止めて、俺に任せる。中華鍋までコンロに乗せておいてくれるなら最後までやっちゃってくれよと思うけれど、母さんが少しでも俺にかける時間を節約できるならまあいいかと思って素直にキッチンに立つ。俺の料理って呼べないけど、サクミと一緒に食べられたらな。1時間だけ、ご飯食べるだけ、貴重な24時間のうち俺に割いてもらえるかな。

今から夕飯の支度をして30分、食べてさらに30分、それから勉強に取り掛かろう。

ギギギー、キイ。


机を元の位置に戻して教室掃除が終わる。


廊下やらトイレやら他の掃除場所からもどってきたみんなが教室に入り、帰りのHRを行う。明日の連絡なんて今聞いても忘れちまうんだからいいじゃん明日で。もう早く帰りたい。


一日で、下校の時間が一番好きだ。


「じゃな」


「おい、お前明日は部活来いよな」


「わかってるって。明日は多分行けるわ」


同じサッカー部のヤマギシとササキに手を挙げてあいさつし、急いで靴箱へ向かう。


俺のクラス3Aの裏側に3Bの靴箱があって、その真ん中が俺らの待ち合わせ場。


やっぱりもう来ている。


「ったく俺のクラス掃除だらだらやって遅いんだよなー、いつも悪りい」


「全然。いこっか。」サクミがいつもの顔で笑う。


うん、幸せを感じています。俺ね、彼女出来たんだ。隣のクラスのサクミ。言っとくけど可愛いから。見た目も声も性格も可愛いんだよ。ほかの女の子よりも一回りちっちゃくって、丸顔のネコ目で髪は黒のショートボブがとにかく似合っている。学校既定の髪型が似合う女の子なんてさらさら居ないでしょ。スカートも膝丈だし可愛いのに先生に注意される要素が無い。すげえ。ほかの女の子なんて化粧したりコテパーしてきたりみんな可愛くなるための努力をしているんですよ。なのに先生たちは問答無用で否定する。先生たちの気持ちもわかりますが彼女らの気持ちもわかってやってくださいよ。けっこう必死なんだぜ。


俺だって、毎晩筋トレしてんだ。こうやって隣同士で歩くと腕がぶつかりそうな距離にあるから、筋肉、ついてたほうが感じいいかなーと思って。


サクミの手からカバンを奪い、肩にかけ、そのままサクミの手のひらを握る。


11月の夕暮れは早い。まだ4時過ぎたっていうのに横殴りのオレンジが這っている。紫も地面から滲み出してきた。カラスが多いね。いいよ、べつにカラスくらいいたって。


ナイス、夕暮れ。俺好き。


サクミは歩幅が小さいため歩くペースを落とす。俺一人だったら10分で帰る距離を二人で20分かけて帰る。手を繋いで、何を話すでもなく、ただ二人で歩いて行く肩の揺れ。息遣い。


目が合えば「なあに?」と腕をゆすって問いかけられ、「なんでもないよ」と手をきつく握り返す。


この20分間のために俺は日々学校へ通うのだ。


初めてだよ、こうゆう気持ち。俺にとってサクミが真ん中に存在していて、俺の真ん中に閉じ込めてしまいたい。


「じゃあまたね。明日はあたしも部活あるから終わったら一緒帰ろ。」


「おう、メールするから。じゃな。」


手を振りながら家のドアにするりと入って消える。

穏やかな夕暮れ時は、サクミの家のドアが閉まる音でカシャリと切られた。