一年の行事で母が1番大切にしてた節分の日。
2月3日の早朝
大好きな母が息を引き取りました。
高野山お参りからちょうど3ヶ月。
まだ母がいない事に実感が無く、今日もいつも通りどこかにいる気がして…そう思う気持ちが平常心を保ててる気がします。
母が亡くなる時の事を書いてますので、あまり読みたくない方はここですみません
去年12月治験参加の為に入院。
まさかの脳転移で治験中止。
6回の全脳放射をして12月30日に退院しました。
1月12日に乳腺科外来で地元の緩和ケア内科に紹介状の手続きをしてもらいました。
もう積極的な治療はしない…母の希望でもありました。
今年に入ってからどんどん体力も体調も悪くなっていきました。
食べ物や薬が喉に詰まらないように、家の中で転けないように、お風呂も一緒に入り、柔らかい食事を作り母の世話をできるだけしました。
大した事はできないけど、一緒にいる事が安心できました。
痛み止めと脳の放射線の影響?
日中、椅子に座った状態で寝てる時も多く、でも起きてる時は色々昔話をしたり、私の子供達が小さかった時のビデオをみたり(古くて画像が悪いけど)一日一日を大切に過ごしました。
地元の病院の予約が1月24日。
私地域ではめずらしく雪が積もるほどの寒い朝でした。
1月24日は父の命日でもあります。
あの日も雪が積もって寒かったな〜。
夕方、姉と一緒に母を連れて病院へ行きました。
支度をして靴を履き車に乗るのも精一杯でした。
緩和ケアの主治医が母の状態を診て
「今日入院しましょう。今の状態はかなりしんどいでしょう?」と。
家で生活するのはもうギリギリだったので、私は母に
「入院させてもらおーね。痛みや息苦しさを取ってもらおーね」って言いました。
入院したら、もう母は家には帰る事はないと…私も姉もわかってました。
前日、母と話はしてました。
「もし入院って言われたら、そのまま入院させてもらおーね」
「そーやね」と言った母。
でも母は帰りたかったんだと思います。
ただ私達にこれ以上心配や迷惑かけれないと思ったんでしょうね。
私も姉も、心配はしても迷惑なんか一つもない。
ただ、母が少しでも楽になる事がその時の1番の選択だったんです。
家で飲める薬で効いてる間はよかったけど、だんだん飲み込みにくくなり、効きも悪くなってた。
入院は間違ってなかったはずなのに、ずっと心に後悔が残ります。
今思うと…
あの日に戻れるなら、1日だけでも家に連れて帰ってあげればよかった。
もう一度一緒にお風呂に入って背中を洗い流してあけたかった…。
それが悔やんでなりません。
精一杯看病しても、やっぱり後悔はいっぱいありますね。
母と面会できるのは私と姉の2人だけ。
病室に入るのは1人づつ交代。
もう少しでコロナ制限の緩和になると言うのに、こんな時でも母と姉と私の3人で会えないなんて。
私はずっと母の病室で一緒にお泊まりしました。
姉が来た時だけお昼頃お風呂に入りに家に帰ってました。
母は入院してからもトイレもギリギリまで自分で行きました。もちろん車椅子で私が連れて行きますが、できるだけ自分でしようとしてました。
もっと楽に過ごしてくれだらいいのに…母の性格ですね。
入院から8日目あたりからは食事も取れなくなり、冷たいアイスクリームを美味しいと2口食べたのが最後でした。
痛み止めと呼吸苦を抑える薬を投与する事で、あまり会話も出来なくなる、寝てる時間が長くなると。
今のうちに会わしたい人を3人限定で呼んで下さいと。
こんな時でも人数制限です。
2月1日のお昼頃だったと思います。
仕事中の息子2人が駆けつけてくれました。
あと1人は母の1番上の84歳のお姉さん。
ずっと心配してくれてました。
入院を伝えた時も泣きながら話しをしました。
面会も1人づつ交代です。
会話ができる間に気持ち伝えてあげてって息子達に言いました。
先に長男から病室に入りました。
5分くらいしたら交代してねって言ったのになかなか出てきませんでした。
そっと覗くと、手を握ったまま泣き崩れてました。
その時の姿を忘れない為に後ろからそっと撮った写真です。
この時どんな会話をしたかはまだ聞いてません。
いつか聞こうと思います。
このあと、次男、そして母のお姉さんが面会しました。
その間も母は我慢してたと思います。
みんなが帰ったその日の午後から薬の投与をしました。
それでも30分毎に目をさます母。
キツイ薬なのに目を覚ます度に苦しそうでした。
私はすぐにナースコールしました。
看護師さんが様子を見て
「薬を追加ますね」
私に確認してから薬を追加します。
これを繰り返すとどうなるか、父の時と同じでわかってました。
治療が出来ないと言われた時から、いつかこうなることはわかってたつもりだけど、薬を追加するたび辛かったですね。
でも、もって2.3日と言われた時、私が母の為に出来ることは、痛みと苦痛を取ってもらう事です。
大好きな母がいなくなるなんて考えれなかった。
でもこの頃には私は、母を早く楽にしてあげたい…そう思うようになってました。
あんなに大好きな母…だからこそ母を苦痛から救ってあげたい。
看護師さんから
「お母様はとても我慢強い方ですね!ずっとそうでした?」って聞かれて
「はい!」って答えました。
看護師さんは
「そうでしょうね。わかります」って。
そーなんだ。
2月2日お昼辺りから、母は目を覚ます事はなくなりました。
ずっと肩から顎にかけてゆっくり呼吸だけ繰り返してました。
日付けが変わったあたりから呼吸がさらに浅くなって、夜中2月3日2時くらいにゆっくりゆっくりと呼吸が止まりました。
呼吸が止まってもまだかすかに心臓は動いてました。ほんとうに最後の最後まで母は頑張りました!
看護師さんから耳は最後まで聞こえてますよって言われてたので、身体さすりながら耳元で声をかけ続けました。
お母さんありがとう!
みんな感謝してるよ!
ほんとにありがとう!
よく頑張ったね!
あれから1ヶ月。
早いですね。
この1ヶ月間、姉と2人で色々手続きや片付けなど忙しくしてました。
でも何をしてても、どこに行っても母の姿、母の事考えてしまいますね。
仕事も3月から行き始めました。
しばらくは母の思い出話しになるかもしれません。
49日法要が終わったらまたゴルフ⛳️もボチボチ再開します!
来月は私の乳癌3年目のPET&マンモ検査です!
無事クリアしますように
最後まで読んで頂きありがとうございます!