気功療法 in 神戸
あの世から戻った超スーパー気功療法師の旦那ちゃんが
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一緒に幸せの輪を拡げましょ~!
こんばんは。
もう2週間ほど気になっていること。ウチのクーラーくん、仕事をお願いして1時間ほどすると、「ガリガリガリ、バフッ!」と怪しい咳をするようになりました…かなりお疲れ溜まってますな。でも今はまだ頑張ってくれぇ~!この酷暑、いつまで続くんでしょうね?
さて、今日も旦那ちゃんシリーズです。
仕事中の落下事故が原因で、あの世にいっかい頭つっこんで戻ってきた旦那ちゃん。手術も無事成功、約2年半の長い長い入院生活からようやく卒業することが決まりました。
手術してすぐの頃には、院長先生から「残念やけど、背骨がひとつないから今後は車いすの生活になるよ」と言われていました。しかし、20歳で新婚ホヤホヤです。そんな生活は嫌や!と、思いつく自己流リハビリを必死で続け、退院時には自力で歩けるようになりました。院長先生をはじめ病院のスタッフ達も、「病院始まって以来の奇跡!」と驚き、泣きながら喜んでくれました。
退院のちょっと前、すっかり仲良しになった院長先生から、「おい、おもろいもん見せたろか?」とある書類を見せてもらいました。それこそが!旦那ちゃん幻の死亡診断書です。
「ほれ、〇月〇日×時×分、って書いてるやろ?」死亡診断書を見るなんて初めて、しかも「生きてる自分」の死亡診断書です。すげぇ!旦那ちゃんはテンション上がりました「先生、これ記念にちょーだい
」おねだりしてみましたが、「アホか!公文書偽造になるやんけ!」院長先生に怒られて、幻の記念品はもらえませんでした。
院長先生や看護師さん達に笑顔で見送られて退院し、ようやく家に戻ると、想像していた希望に満ちた未来とは真逆の生活が、旦那ちゃんを待ち受けていました。
それは後遺症の苦しみでした。病院ではほとんどなかった体調不良が、毎日旦那ちゃんを襲いはじめました。
いちばん大きな症状は、激しい頭痛でした。
朝、頭が割れたかと思う激しい頭痛で1日が始まります。頭痛の激しさで嘔吐もします。自分のまばたきの音って、聞いたことがある方はほとんどいないと思います。しかし、当時の旦那ちゃんには、「ピキィーン」という金属音のようなまばたきの音が大きく頭に鳴り響き、その刺激でさらに頭痛が激しくなり、嘔吐を繰り返していました。
普段の何気ない生活音も、旦那ちゃんには凶器になりました。ドアを閉めた隣の部屋で、静かにしている家族の静かな呼吸の音も、ナイフのように旦那ちゃんに突き刺さり、頭痛を激しくさせました。常に激しい頭痛があり、痛みが治まる間がないので常にイライラし、痛みでなかなか眠ることができません。ようやく眠っても、痛みで熟睡はできませんでした。
もうひとつの症状は、急な脱力でした。
何の前ぶれもなく、突然、体中の力が抜けてしまい、倒れ込んで意識が無くなります。それは電車に乗っている時や、仕事中でも容赦なく、いきなり起こります。「あぁっ!」と思った時にはなすすべもなく倒れ込み、次に気づいた時は、もう病院のベッドの中でした。そして大抵は、「体力回復と経過観察」として、ほぼ1ヶ月、そのまま入院するのが常でした。ようやく退院したその日の夕方に、また同じ病院に担ぎ込まれて、そのまま1ヶ月入院しなおすことも珍しくありませんでした。
こんなこともありました。
朝の満員電車の入口付近で、ようやくへばりついて乗っていた時です。後ろからハイヒールで走ってくる女性の足音が聞こえ、嫌な予感がしました。その女性は発車ギリギリに、旦那ちゃんの背中にドンッとぶつかって乗ってきました。発車と同時に、すぐ背中にしびれと液体が流れる感覚があり、背中の傷が開いて出血したことが分かりました(傷口の皮膚が薄いので、何回か傷が開いたことがあるそうです)。
傷口を押さえようと背中に手を回すと、ちょうど女性の下腹部に手が当たりました。「何すんねん、このチカン!」と女性は大声でどなりました。旦那ちゃんはすぐに「アホ!チカンちゃうわボケ!」と言い返し、次の駅で女性の腕を掴み、一緒に降りました。
「お前がぶつかってきたから傷口が開いたんやないか!それを押さえとったんや!見てみぃコレ!」
言われた女性と周りの人達は、血で真っ赤に濡れ染まったワイシャツの背中と、そのまま気を失って倒れる旦那ちゃんを見ました。
旦那ちゃんに処方された最初の薬は、頭痛を抑える鎮痛剤だけでした。しかし全く効きませんでした。すぐに、イライラを止める精神安定剤、眠れるように睡眠導入剤、胃を整える胃薬…と、薬の量がみるみる増えました。そしてさらに強い鎮痛剤へ変更・増量…薬への依存まっしぐらの道を進みました。
あまりの激痛と思うように動かない身体。その苦しみから解放されることのない日々。旦那ちゃんは次第に心が病んでいきました。そして、目の前の苦しみから逃れるために、自殺の方法ばかり考えるようになりました。
あまりの苦しさから、泣きながら自分の喉元に包丁を突きつけたこともあります。「このまま突けば、楽になる。」でも不思議です。どんなに腕に力を入れても、喉に向けた包丁がまるでそこで固定されたかのように、それ以上喉へ近づけることができませんでした。
また別の日は、包丁に覆い被さって、友達に「このまま上から乗ってくれ」と頼んだこともあります。慌てた友達が飛んで逃げたので、事なきを得ました。
ガスも試しました。隙間にテープを貼って目貼りをし、ガスのコックを全開にしました。しかしすぐにあまりの臭さに「オェェッ」と吐き気に襲われ、「アカン我慢でけへん!死んでまう!(←えっ!?)」と急いで窓を全開にし、換気しました。
首を絞めるのと、高いとこから飛び降りるのは、最初から選択肢にありませんでした。首は絞めたら苦しいから、高いとこは事故で落ちて以来怖いから、というのが理由です。(←えっ!?)
(この話を聞くと、当時の本人は真剣なんですが、いつもコントみたいやなぁ、と笑ってしまいます。こんな変な理由のお陰で死なずに済み、今があるんですね。見えないとこで両親が守ってくれてたんやな、と感謝しています。)
自殺ばかり考える自分は頭がどうにかなったんじゃないか、と不安になり、精神病院に「入院させてくれ」と自ら志願し、しばらく入院したこともあります。すぐに「ココにおったらホンマに精神がおかしなる!」と、慌てました。そして何とか退院させてもらったそうです。
身体にいい、と耳にしたことは何でも試しました。
鍼、中国針、お灸、胎盤注射、十字式健康法…その他いろいろ、多すぎて覚えていませんが、とにかく数え切れないほど何でも試しました。頭にでっかいすり鉢をかぶり、その上から大量のモグサを乗せ、キャンプファイヤーのようなお灸をしたこともあります。40cmくらいの長さの、針金のようなぶっとい中国針を、背骨に沿って打ち込んでもらったこともあります。しかしどれもあまり効果は続かず、よくもったものでも1週間くらいしか持ちませんでした。
そんな状態だったのに、食事には全く無頓着でした。ほぼ毎晩焼肉とビールで乾杯し、日付が変わる真夜中まで、タバコ片手にお酒を飲み歩く日々を続けました。今から思うと、苦しみを紛らわせたいのが半分、あとの半分はヤケクソで無理して早死にしたかったんでしょう。結局、そんな無理が祟って脱力発作が起き、また入院の日々に戻りました。
こんな日がいつまで続くんや?
こんな調子で、生きてる意味あんの?
何のために僕は生き返ったんや?
救いのない激痛の日々と、答えが見つからない疑問に、旦那ちゃんはもがき苦しみ続けました。そして苦しみ続けた20年後、ちょうど40歳の時、運命がその時を迎えました。
そう、気功療法と出会ったんです。
全ての方に支えられて、私たちがあります。
これからも愛と魂を込めて、気功療法を送り続けますね
ありがとうございます。
明日も幸せな一日になぁれ