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超スーパー気功療法師の旦那ちゃんがFacebook始めました。

慣れないPCに奮闘しながら楽しんでますので、応援してください。

Facebookで「橘奎志」と検索すれば見つかります。

(名前の読みは たちばなけいし です。)

 

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こんにちは。

ウチの旦那ちゃんは、橘 奎志(たちばな けいし)といいます。

超スーパーな気功療法師です。

どうやってこのキャラの濃い~旦那ちゃんができたのか?

今日はその旦那ちゃんの、父と母のお話です。

 

 

これは旦那ちゃんの父と母が生きた、明治後半から大正、昭和初期にかけてのお話です。

 

父は11人兄弟の2番目、身長180cm超えのなかなかのイケメンでした。事業も手広くやっていて、知っている範囲だけでも某有名証券会社の発起人として連名していたり、米穀店経営、他社の経営コンサルタント、中小企業への資金援助など…かなり敏腕だったそうです。歴史の教科書にも載るある方が日本へ亡命した際には資金援助をずっとしていたそうで、一緒に写った写真もあったそうです。大正期には珍しかったカフェも数軒経営していて、流行の最先端としてかなり賑わったそうです。

 

 

母は橘流琵琶の本家の出身で、琵琶はもちろん三味線、お琴、長唄など、芸事で右に出る者はいませんでした。綺麗な瓜実顔で、小っちゃい身体で琵琶を奏でる姿が評判で、演奏会はいつも大盛況だったそうです。当時の演奏会の写真には、多くの観客がじっと聴き入る様子が残っています。その後、俳優の阪東妻三郎氏(田村正和さんの父)が設立した芸能事務所「阪妻プロ」の創設時の女優第1期生として参加し、数本の白黒の無声映画にも出演しました。

 

 

そんな二人が運命的な出会いから発展、大恋愛になりました。

母は橘家の跡継ぎで、「嫁には出せない」と大反対されましたが、母以外に添い遂げる人が考えられなかった父は「それならば」と、橘家へ婿養子に入ることに決め、ようやく結婚を許されました。

 

 

結婚後、2人の女の子には恵まれましたが、切望の男の子がなかなかできませんでした。

 

 

太平洋戦争が終わってしばらくした頃、父が体調を崩し、病院の検査で結核だと分かりました。戦後だったその当時、結核はまだ有効な薬がなく、「死の病」と言われていました。母は助けたくて必死に看病しました。元々身体が丈夫ではなかった母に、結核がうつるのに時間はかかりませんでした。

 

 

そして、母の結核が告げられたのと時を同じくして、3人目の妊娠が告げられました。

 

 

2人の娘もまだ小さいから、夫婦ともに死ぬわけにはいかない。母の体力から考えて、出産はリスクが大きすぎる。ましてやお腹の子が切望の男かどうかも分からないのに、出産の危険に挑んでいいのか。

父も母も悩みました。何度も何度も話し合いました。

 

 

悩み抜いた末に、母は、自分の命と引き替えになることを覚悟で、お腹の子を産むと決めました。そして体力保持と万が一の事態に備え、結核専門の病院へ入院しました。

父は母の決断に同意し、子ども達の為に少しでも長く生きられるよう、結核に冒された肺の部分切除手術を受けました。

 

 

そして出産の日。

苦しみの末ようやく産んだ子は、「結核がうつらないように」と、抱くことはもちろん顔も見せてもらえないまま、別の場所へ連れて行かれました。後から「男の子」と聞かされました。

 

 

この男の子が、旦那ちゃんです。

 

 

父も母も、それぞれ結核専門の病院に入院、3人の子ども達は施設へあずけられ、家族はバラバラになってしまいました。

 

 

それから2年後、母はあれほど切望した息子の顔をとうとう一度も見ないまま、力尽きてこの世を去りました。

 

 

父も、子ども達の為になんとか生きようと頑張りましたが、願い叶わず、旦那ちゃんが9歳の時、静かにこの世を去りました。

 

 

旦那ちゃんには、母の思い出がありません。写真の母しか知りません。後に親戚のうろ覚えの記憶の話で、母の様子をうかがい知るだけです。

 

 

でも、父との思い出がたったひとつあります。

ある日突然、施設に父が迎えに来て、一晩だけ父が暮らしていた家で過ごしました。9歳だった旦那ちゃんは、その時何かのきっかけでぐずりました。すると、父はその大きな手で思いっきり旦那ちゃんの横っ面を平手打ちしました。その平手打ちが、痛いだけではない何か特別な感じがして、妙に印象に残りました。

 

そうして一晩過ごし、施設に戻されました。

施設へ戻った翌日、施設の先生から、「昨日お父さんが亡くなった」と聞かされました。

 

そうして、父がありったけの愛を込めた平手打ちが、父が残してくれた唯一の思い出になりました。

 

 

 

読んでくださってありがとうございます。