被災地のみなさま
本当に本当にツラくて苦しい状況だと思います

わたしも3.11のとき
沿岸部にいたので
復興まで本当に大変で本当に病んで
上京したとき
津波どうだった?とか聞いてくる人もいて


まじでわたしたちの中では
風化させられるものではないのに



でも復興して
流される前より町は盛り上がっているので
つらかったけれども、
必ず未来は明るいっていうのはお見せしたくて
このブログを書きました。




今は闇の中で
光が見えないと思うけれど、
太陽は雲に隠れているだけだから
どんな状況にあっても
苦痛で見えていないだけで
必ず光は存在しているから。

本当にそうだから

今は本当にツライと思うけど
慣れ親しんだ街も違うものになってしまったり
見たくないものを見たり
慣れない環境に身を置いて苦しかったり
避難所のトイレが本当に臭くて
ヤバくてまじで嫌だと思うけど



心は守って欲しいです。




雪国では難しいかもだけど
できる限り太陽を浴びてストレッチして
深呼吸して
わたしたちの祈りを感じて欲しい



どうか不快の波に囚われないで



渦中にいると
どうしても感覚が閉じてしまって
ふさぎこんでしまうから

不安と恐怖を感じさせるものからは
距離をとって欲しいです。

そして明るい未来の先取りをしてください。


でもそれが難しいのなら、
まず、ご自分の身体の状況をみてあげてください。



今あなたの呼吸は浅いですか?深いですか?
今指先はどんな感じですか?
肩ははっていませんか?
腰はやわらかいですか?


聞いてあげてください。


今手に触れているものはどんな感触ですか?
足先は冷たくないですか?

一本一本丁寧に
ありがとうって声をかけてあげてください。
さすってあげてください。
できる限り緩んであげてください。
頬に手を当ててあげてください。
がんばってるね。
大丈夫だよ。って。言ってあげてください。


感覚が戻ってくると、
見えなかった先も変わってきます。



 
すごく長くなるけれど、
3.11の時の状況を書いておきます。
きっとこうでもしないと思い出さないと思うから。  


未来は明るい証明をします。
津波に流されかけた
わたしが今明るく生きてるもん。



津波の描写とかあるので
お辛い方は飛ばしてください。




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3.11のとき
通っていた学校の先輩方の卒業式で
式典が終わって
コンビニで友だちと立ち読みしていたら
揺れが来て

その頃地震が超多かったから
あー、またか
と思って釣りキチ三平コンビニ版を
立ち読みし続けていたら

どんどん揺れが大きくなって

外に出たら電柱がありえない角度でしなっていて

こらいかんと

高台に逃げたら
つなみだ!って町の人が叫んで

下には黒いのがきているって言っていて


急いで更に高い位置にあった友だちの家で水くんで
でも揺れは止まることなく
ずっと弱い強い繰り返してて
吐きそうになっている友だちつれて
更に高台にある避難所に行ってみた。



そしたら学校のみんながいて
さっきまで袴をきていた先輩たちが
盛り髪のまんまストーブに当たっていて


一番被害の大きかった
地区出身のクラスメイトが
携帯でみれたテレビで
大変な状況になっている地元をみて
お父さんとお母さんと弟の名前を叫んでいて

みんなただ抱きしめることしかできなくて

そしたら千葉の方も爆発してるとか
なんかすごくてわけわかんなくて

でもどうしたって時が過ぎるのを待つしか無いから
持ち寄ったトランプとかUNOとかやった。



そしたら門限を設定していた
毒養父(母の再婚相手)から
鬼電がかかってきていて

帰ってこい!帰らないなんてお前はやっぱり頭の悪い〜とかなんとか叫んでいて。


いや無理っしょ。笑
ってみんな言ってくれて


わたしも震度7の地震は2回経験してるもので
絶対動かない方がいいって確信していたから
帰らなかったけど


そしたら津波が避難所の
目と鼻の先まできて屋上に逃げて
友だちの新車が流されて
なんかぜんぶ流されて。



でもなんか不思議と恐怖は無くて
ほらー帰らん方がよかったべなーとか言って笑いまくった。

九死に一生女だ
あっぶねーやっべーとか言って

その後の避難所の夜は超寒かったけれど
友だちがホッカイロくれて
本当に本当に助かった。


そしてなんかここにいるみんなの幸せを祈りながら眠って


次の日
避難所で自衛隊の人達が
「温かいのを食べるとホッとするから食べて」
って言って炊き出しをしてくれて
ほんとにホッとしたのを覚えている。



雪の降る中みんな並んでて
うちらは若者だったし
おばあちゃんとか赤ちゃん連れに先にご飯渡して
また並んで
徳積んだ〜🤟いえあ
とかやって
ご飯大事に食べながら笑い合った。


そんな避難所生活で唯一つらかったのは
トイレがやばかったこと(T_T)
そら町の人みんないるんだもん、ねえ



でも人の優しさに超触れて
不思議とそんなに辛くない思い出だなあ。




実家帰ってからが
まぁ大変だったけど


しばらく裏の崖に母ちゃんと並んで
トイレしたりして
食べ物も母と分け合おうと思ったら
食い尽くし系の養父が
全部食おうとしたり。なんとも言えん。


でも、養父、漢気はあるから
被害の大きいところに物資運んだりして
おらこんな状況で申し訳ねえけども
コーヒー飲みてえんだよって
言ったおばあちゃんにミスドとコーヒーまた運びに行ったりして。


だからみなさん被災してるけど
遠慮なく心を守るために要求してください
できる限りするから



そして心を守るために
テレビも見なくてイイと思います。
わたし当事超テレビっ子だったから
暗いテレビで病んでしまって。

唯一、ちい散歩だけが救いで



偏向報道と
今それやってうちら不安にさせても
どうしようもなくない?って感じの
なんか苦しくさせるだけのオンパレードだから。


不安と恐怖はエセなんで。本当に。

 


そして徐々にだけど
日常は戻っていきます。


あの時の岩手の友だちなんて
就職の願書出す時実家が仮設住宅になっちゃった、、
って言っていたのに
地元で就職して結婚して今じゃ3人の子持ちで
家も新築で建てて
すげー楽しそうにやってます。




わたしもこうやってそんなんあったなー
くらいのテンションで生きてます。


ただ、渦中にいるとツライと思う。
その辛さは否定しないで。
辛いに決まってる。

でも大丈夫、本当に大丈夫だから。
絶対に戻るから。
あんなこともあったんだよーって
語り部じゃないけれど
こうやって遠い昔の出来事として話す日がくるから。






石川、新潟、富山の皆様がまた誇りを持って
地元で暮らすことができますように。