鈴の音は、小さかった。
 けれど、確かに“空気を震わせる力”があった。

 

 耕造は、その夜から寝床に鈴を置くようになった。
 あの音を聞いていると、不思議と眠りが深くなる気がしたからだ。
 それに――澄子の気配を、ほんの少し感じることもできた。

 

 藍は、鈴の傍にいるときだけ、
 まるで人間の子のような顔をすることがあった。

 目を細めて、静かに風の匂いを嗅ぎ、
 首を傾けて、小さな耳をぴくぴくと揺らす。

 

 「なぁ、藍……おまえ、本当に、あの子なのか?」

 

 耕造はまた、口に出してしまっていた。

 

 “あの子”――澄子が、静かに、涙も見せずに流産した命。

 

 あの日、冷たい診察台の上で、
 澄子は笑って言った。

「この子はね、夢の中で言ってたの。
 また来るよ、って。
 別のかたちで、お父さんとお母さんに会いに行くからって」

 

 その言葉を聞いたとき、耕造は信じなかった。
 「悲しみに耐えるための嘘だ」と、自分に言い聞かせた。

 

 だが今、藍の目が、その言葉の続きを語ろうとしているような気がする。

 


 

 それからというもの、耕造の耳は“鈴の音”に敏感になった。
 決して強くはない、ほんの小さな揺れ。

 

 たとえば、窓を開けたとき。
 たとえば、誰もいない部屋で風が通り過ぎたとき。

 その音が鳴ると、耕造の胸にある“ある感情”がよみがえってくる。

 

 それは後悔でもない、悲しみでもない。
 名前のない、赦しのようなものだった。

 

 ある日、仏壇に線香をあげていると、藍がそばに寄ってきた。
 耕造が目を閉じて祈っていると、藍はすっと隣に座った。

 

 と、そのときだった。

 

 チリ……ン。

 

 風もないのに、鈴が鳴った。

 

 耕造は、目を開けた。
 鈴は、仏壇の上ではなく、藍の首元で鳴っていた。

 

 見れば、いつの間にか、
 あの銀の鈴が、藍の首輪に結ばれていた。

 

 ――誰が? どうやって?

 耕造は首をかしげた。

 けれど藍は、それをまるで“当然のこと”のように受け止め、
 耕造を見上げて、静かに尻尾を振った。

 

 「澄子……おまえ、やったのか?」

 

 問いに答える者はいない。
 だが、空気のなかに、わずかに花の香りが混じっていた。

 それは、澄子がいつもつけていた薄紅の香水の匂いだった。

 


 

 それからというもの、鈴が鳴るたびに、耕造はふとした記憶を思い出すようになった。

 たとえば、澄子が作ったたまご焼きの味。
 たとえば、一緒に見た雪の日の朝。
 たとえば――あの日、名前をつけ損ねた命の“胎動”。

 

 なぜか、それが藍の仕草と重なってくる。

 

 ふとしたとき、藍が庭の桜の木の根元で寝る姿は、
 澄子が妊娠中に「よく眠れる」と言っていたあの場所だった。

 

 縁側で転がる姿は、澄子の膝の上でよく蹴っていた“胎児”の動きに似ていた。

 

 偶然か?
 思い込みか?

 

 いや、違う。
 これは、“なにか”が戻ってきたのだ。

 別の姿で、別の記憶として。


 

 夜。
 耕造はふと夢を見た。

 

 縁側に、澄子が座っている。
 その膝には、小さな女の子が笑って座っていた。

 

 「おじいちゃん、わたしね、藍っていうんだよ」
 「……あい?」
 「うん。ママがつけてくれたの」
 「……そうか、かわいい名前じゃな……」

 

 夢の中で、耕造は泣いていた。

 

 目覚めると、布団の上に小さな白い毛が落ちていた。
 藍が、いつの間にか隣で寝ていたのだ。

 

 そっと撫でると――
 首の銀の鈴が、小さく震えて、音を奏でた。

 

 チリ……ン。

 

 それはまるで、
 「思い出してくれて、ありがとう」と言っているようだった。