2024年1月13日で、還暦を迎えました。
最初の10年はさておき、残りの50年はほとんど全てラジオと密着していたといっても過言ではない。
ここから大まかに10年ずつ区切りながら、文章を残そうと思う。
言ってみれば、今もなお継続するラジオ愛なのだ。
Ⅰ 10代(1974-1983)
これは自叙伝とは違うので、父親の職業とか兄弟構成みたいなものは省略させてもらう。
10歳の誕生日だったか、まぁその頃にラジカセを買ってもらった。
まだ子供だったから、子供向け番組といえば当時は「全国こども電話相談室」というTBSラジオの平日夕方放送の番組が有名だった。
小学生リスナーが電話で生出演して質問した内容を、レギュラー無着成恭先生をはじめ当日出演の各著名人の誰かが担当して答えるというもの。
僕も引っ込み思案なくせに自己顕示欲だけは強かったので、何回か聴いているうちに自分も出てみたくなった。
特に何か景品がもらえる筈もなかったのだが、出演したことによって自己顕示欲は満たされるから、今思えば素晴らしいシステムだと言える。
50年近く前の話だからどんな質問したか忘れたと思っていたのだが、これがふとした瞬間に蘇る記憶装置を所持していたとは我ながら驚いた。
「どうして帰って来た時に『ただいま』と言うんですか?」
これにはレギュラー無着成恭先生が直々に答えてくれた。
「それはね、『ただいま帰りました』を省略しているんだよ。今度帰った時は『ただいま帰りました』って言ってごらん。」
確かこんな感じだったと記憶する。
すごく舞い上がって翌日学校で親しい友人に「昨日僕ラジオに出たんだよ」と言ってみたところ、残念ながら反応は薄かった。よくよく考えてみれば、ラジオを聴く小学生なんて稀有な存在だったということ。
ラジオに出演したり、投稿音楽作品をオンエアされたり、こういう話はいくらでもあるので、小学生時代のを一つ紹介しただけに留め、ここではその他のそういう類の話は割愛する。
とにかくラジオは耳さえ傾ければ楽しめる媒体であることは理解したので、何か他のことをやりながらでも…こんな魅力というよりも魔力に取り憑かれた。
野球中継、芸能人が語る番組、リスナーが参加するクイズ、まぁ番組の種類は様々だった。
当然のように夜更かし癖は直らず、遂に禁断の「オールナイトニッポン」まで聴くようになる小学生。
カッコマン(のちの伊藤政則)の放送が最も楽しかった自分の感性は、何だったんだろう。彼は第2部だったから、金曜日の朝は2時台に起きて南こうせつの終盤から継続して聴く場合も多かった。
そして中学2年にもなれば音楽に俄然興味を示すようになり、自宅にあったオルガンで作曲を始める。ほぼ時期を同じくして、FM雑誌を購入して聴くことも覚えた。
当時のFM雑誌はオンエア予定楽曲とアーティスト名が大部分網羅されていたので、入念にチェックして留守録も活用した。
ラジオの良いところは音楽ソフトを購入しなくても、ありとあらゆる楽曲が全て無料で楽しめる点に尽きる。
あとは音楽のみならず、耳よりな情報が得られるポイントも高い。
こうした中で数々の番組の虜になったが、NHK-FMで平日18時に放送された各局ローカル番組、東京放送局制作「夕べの広場」には本当に魅了された。
アナウンサーが日替りで番組パーソナリティを担当して、リクエストしたリスナーの名前(基本はペンネーム)を読上げる。生方恵一や中江陽三など、テレビでおなじみの方も曜日レギュラーだったから凄い。
何度かリクエスト葉書を送り、初めて採用された時は心の底から舞い上がった。この感激を忘れず、遂に常連リスナーと化した。
そしてそして何をトチ狂ったか番組を通してリスナーに呼びかけ、「夕べの広場ファンクラブ」を設立したのが高校2年か3年の頃。
もちろん自分が発起人だから、自ら会長を名乗り出た。
スタジオ見学会やら野球大会やら、あれこれ企画したものだ。今でいう「オフ会」みたいなものを、既に1980年代前半に敢行していたとは!
これも専門学校に進学してからは勉学に燃えた為、番組こそは聴いていたもののファンクラブ活動まではフェードアウトしてきた。
そのことをメンバーの方々から指摘され、すごく頭脳明晰な同志メンバーに会長の座を引継いだ。
ここまでが10代でしたが、こうして文章にすると大激動だったんですね。
もしかしたら10代が最も凄かったかもしれません。
Ⅱ 20代(1984-1993)
ちょうど20歳で就職し、最初の数年間はラジオを聴いていたが、仕事が忙しくなったことと競馬に夢中になったことで、ラジオから少しずつ離れる生活スタイルに変わってきた。
その頃はFM放送多局化時代を迎え、聴きたい番組によって放送局を選べるように便利になったが、逆にFM雑誌の番組表が見づらくなった。こんな現象も、ラジオ離れの決定的要因だと言えよう。
1992年だったか、またラジオのリスナーとして戻る決心をした。局は選べるけれど、長年慣れ親しんだTOKYO FMを主として聴くことにした。
そして再び、社外モニターになった。ここで「再び」と言ったのは、10代の項で書き忘れたが、難関20倍の狭き門を突破したのは17歳の頃だった。しかし今回のモニターは、応募さえすれば誰でも成れるものだった。
何と言っても特典の一つにFAX本体というものがあり(貸与だったかもしれない)、これがリスナー人生に大きく影響したのであった。
この辺りは時代が大きく進化している頃で、FM多局化の他にファクシミリの普及が挙げられる。
これまでリスナーがリクエストやメッセージで参加するには葉書が主流だったのが、FAXに替わってきた感が強くなってきている。
葉書の投書で感じていた日数的タイムラグの問題は、とりあえずこれで解消されたのは確か。
Ⅲ 30代(1994-2003)
FM多局化時代も更に進化を遂げ、今度は出力が少なくて済むコミュニティFMが、全国に普及し始めた。
近所では1995年むさしのFM、そして本当の地元には1998年FM西東京がそれぞれ開局した。
出演した話は約束通り置いておいて、やはり番組へのメッセージを送るのは専らFAXだった。
2000年代に入ってからは、ホームページの掲示板という手段も誕生した。
Ⅳ 40代(2004-2013)
この辺りから、リスナーの番組参加手段にEメールが登場する。
最初はパソコンから送る方法しかなかったが、やがて携帯電話からも出来るようになってきた。
そうこうしている間に、世間ではTwitterが普及し始めていた。
やはり最初は地元FM西東京の関係者を中心にフォローして、次第に範囲が広がっていったもの。
Ⅴ 50代(2014-2023)
Twitterでフォローしている方が、ご自身のラジオ番組にハッシュタグを付けてツイートすることがよくあった。
その番組を知らないから、それを機に聴くようになる。
Twitterでよく現れるハッシュタグは、すごく便利なものだと気付いた。
特にラジオ番組特有のハッシュタグには、フォローしているしていない関係なく、タイムラインに現れる。
同じラジオ番組リスナー同士が、ここで繋がるのだ。
この中からフォローし合う者もあり、たまには同じラジオ番組以外のツイートでも「いいね!」やリプを頂いたりすることもある。こんな感じで番組を越えた交流ができることが、格別なのである。
特に繋がりの強さを感じている番組は、bayfm「9の音粋」だ(ハッシュタグ#キュウオン)。やはりTwitterで意気投合した音楽評論家・スージー鈴木を始めとするマニアックなパーソナリティがそれぞれの曜日を担当し、これまた一筋縄では語れない程の音楽通なリスナーがTwitterのハッシュタグを通じて絡み合う図式。
残された野望は、そういった方々に自分のライヴステージを楽しんでもらうこと。
時々自己宣伝めいたツイートする場合もあるが、ご容赦願いたい。
まぁこれは60代以降に望みを託すとしよう。
やや尻切れトンボ感はありますが、ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
時代の流れ、よく聴くラジオ番組の変遷、自分のライフスタイル、今後どうなるか予想もできませんが、60代以降も自分らしく生きていきます。宜しくお願いします。