僕がプロ野球に興味を持ち始めたのは小学校4年生の頃だと思う。1973年だ。
1964年1月13日に生まれているので、早生まれとされ、1963年の昭和38年世代ということ。

1973年といえば、巨人軍が最終試合に勝ってV9を達成した年でも知られる。
それ以前からアニメ「巨人の星」は知っていたし、親父も応援していたので僕も同様に。
やはり派手なパフォーマンスの長嶋茂雄に魅了されていたのだ。
「野球を知らないから巨人ファン」
今でこそこれを常套句に馬鹿にする事は多々あるが、恥ずかしながら当時の僕がまさにそれ。

ところが1974年のシーズン終了と同時に長嶋は引退する、長嶋ロス状態の僕どうする?
しかし1974年は、同じ後楽園球場を本拠地とするもうひとつの新球団も誕生している。
それは日本ハムファイターズ、前身の日拓ホームフライヤーズを買収して出来た球団。
密かにこの球団に興味を抱いていたのは事実、翌年「少年ファイターズ」というファンクラブ入会。

1975年といえば、広島東洋カープ初優勝の年。
惜しくもファイターズは最下位に終わったが、それまで弱かった広島にも好感を持っていた。
と同時に巨人軍が嫌いになり、この辺りからアンチ巨人としての人生が始まったのだろう。
僕は身体も小さく、当然に力も弱い。性格も当時から捻くれていた。
小学生なのにオールナイトニッポンをよく聴いていて、柏村武昭のDJが面白かった。
誰だか判らなかったが、やたら広島カープを推す、推す。間違いなく影響された。

中学生になった1976年からはフジテレビで「プロ野球ニュース」も始まり、ひととおりの球団を応援した。
特に1978年は弱小と言われ続けたヤクルトスワローズの初優勝、これは燃えました!

そしてそして1979年、我が地元の西武鉄道沿線に新球団が誕生!
西武ライオンズが、前身クラウンライターライオンズから本拠地まで移転しての参入。
これはまさに地元中の地元なので、応援しない訳にはいかない。
大きな声では言えないが、この創設当時のライオンズが一番好きだったりする。
常勝を求めないファンも滑稽なのだろうけど、そればかりでは正直つまらない。
弱い球団を応援して勝った時の気分こそ、格別なのである。

1982年に高校を卒業し、その後の進路は簿記会計系の専門学校。
高校の担任が推薦してくれたその学校の所在地が、事もあろうに信濃町。
「これは神宮球場が近い!」と喜んでみたものの、入学1年目は猛勉強の毎日。
頑張りが実って、2年目は先輩方と同じクラスに机を並べる展開。
しかしそのクラスに悪い先輩がいたとは、夢にも思わなかった。
なんとまあ、出会った先輩が2人揃ってヤクルトファンだったのが運のツキ。
お約束のように、神宮球場に通う日々が待っていたのだ。

西武よりヤクルトを重点的に応援するようになり、1985年のシーズンに突入。
その前年のドラフト会議では読売が桑田真澄を強行指名、清原和博は西武が指名権を得た。
KKコンビと言われ持て囃された両選手だが、僕はそのどちらも嫌いだった。
ここで僕の西武離れが始まったのだ。

時は流れて1997年、清原がFAを行使して読売巨人軍に移籍。
その少し前から工藤公康や秋山幸二のFA流出があり、僕の心が再び西武に傾きかけていたのだった。
こうなれば、心おきなく西武ライオンズを応援できる!
清原和博こそ、僕が西武を応援するか否かのキーマンだった(笑)。

それ以来、西武ライオンズファンを貫いている。
2番手で申し訳ないけど、ヤクルトファンでもある。
暫くは変わらないつもりだが、球団はさておき井口資仁のファンであるから、彼の動向によってはどうにでもなりそうな気がする。