憩いの森の奥、町の者が訪れることのない死角。そのささやかな安息の地には、今日も少女と黒犬の姿があった。
 黒犬は身体の左側を上にして横たわっている。リサリサはその脇に座って犬の身体に手を添えた。
 いつもより体温が高い。呼吸も浅いし、時折身体中の筋肉が震えている。

「熱があるし、震えてるよ……ねえ、大丈夫?」
 ――お前医者の娘だろ? 外傷に対する正常な防衛反応だ。自力で快復できる。
「まだ、血が滲んでる」
 山賊に巻いてもらった包帯を解いて、血糊で張り付いた赤黒いガーゼを静かに取り除く。顕わになった傷口はまだ塞がってはいないが、既に僅かに肉が盛ってきていた。
「切り傷は洗った方が良いってお父さんが云ってたんだけど……どうしよう……」
 家から勝手に持ち出してきた洗浄用の水が入った瓶や、使い方が良く判らない綿を取り出して少女が戸惑う。
 ――ほっとけ。この程度なら自然に治る。それよりむしろ、お前に処置される方が怖い。
「薬要る? 病院の人呼んでくる?」
 ――呼ぶな。逆に殺される。薬もいらねー。
「……痛い?」
 ――そりゃな。だが俺は人間ほど痛みに敏感じゃないから、お前が想像するような恐ろしい痛さとは多分違う。
「え!?」少女が驚いて目を剥いた。「人と犬って感じる痛さが違うの……?」
 ――当然違うだろ。人間は特別痛がりだ。後は基本的に強い武器を持つ者は痛みに敏感で、捕食されやすい連中は鈍いのが多いように思う。まぁ単に我慢強いだけかも知れんが。
「へぇー……」
 リサリサは少し感心した。自分と他者で痛みの感じ方が違うなどとは考えたことも無かった。傷と痛みの概念は、彼女の中では分かち難く一体化していたからだ。同じ傷を受ければ誰もが同じように痛いのだと、リサリサは深く考えずにそう信じていた。
 黒犬が起き上がり、自分の負っている怪我を目で確認する。
「でも、なんで強い方が痛がりなのかな。なんか逆っぽい気がするけど」
 ――殺傷能力の高い者は、ある程度痛みに敏感でないと正常に生育できない。なぜなら、自分の武器の使い方を覚える過程で自分自身を殺してしまうからだ。戦いの場では痛みが不利になる場合もあるので、強い者が必ずしも鋭敏な感覚を持っているとは限らないが。
「なるほど! こんな事まで知ってるなんて、がじちゃんは博識だね!」
 当たり前の知識なのかも知れなかったが、傷の痛みを紛らわす意味も籠めて、とりあえず褒めてみた。
 この犬が賢いことは判っていたが、本当に色んな事を知っているとリサリサは思う。日頃からこうした事柄について思索しているのだろうか。それとも、リサリサ自身が特別馬鹿なだけで、みんな当然のように理解している事なのだろうか。
 リサリサは黒犬が嬉しそうに自分を馬鹿にするだろうと期待した。しかし、彼の声は明るくはならず、逆に翳を増して返ってきた。
 ――忘れたか? “制約の環”は痛みで対象を制御する。つまり、これを作った連中は痛みの専門家だ。俺はそいつらとずっと一緒に居たんだ。
「そうでした。周りに先生がいっぱい居たんだね」
 ――鬼や亜獣の痛みの感覚など誰も知らなかった。それが具体的にどう違うのかを比較するのも、難しい。
「他人の痛みは判らない?」
 ――その通り。だから連中は実験を通じて知る必要があった。人でない者にどのような痛みを与えれば、効果的に苦しむのかを。そのために随分多くの試行があった。
 リサリサは思わず息を呑み、片手で口を覆った。
 この犬の過去があまり楽しいもので無さそうな事は気が付いていた。だけど、それが具体的にどんなものだったのかは、全く想像すらしていなかった。
 そんな話を聞き出したい訳じゃなかった。そんな事を思い出させるつもりじゃなかった。
 リサリサは手を下ろして何かを云いかけたが、それは言葉にならず、また口を噤んでしまう。
 ――あぁ、要するに……この程度の傷や痛みは全く問題にならないと、そういうことだ。
 少女が泣き出しそうな顔を見せた所為か、黒犬は珍しく繕うようなことを云った。



 五味は憩いの森に幾度目かの訪問を行った。
 この森は町民の憩いの場であり、あの時の女の子と黒い犬が隠れ家代わりに使っている場所でもある。ただし、後者について知っているのは今の所、五味ぐらいかも知れない。
 今もあの子と犬は、この森の何処かで一緒に居るのだろうか。
(おっと……)
 どうでも良いことに思いを寄せながら周遊道を歩いていると、珍しく他人に出くわした。
 前方から歩いてくるのは、女性と見紛うような綺麗な金髪を腰まで伸ばした優美な男だった。男は緑を基調にした街着に身を包み、登山者や狩人が好みそうな羽根つき帽子を被っている。
 線が細く、余り身体を鍛えている風ではないが、歩き方を見ればある程度の実力は掴める。この男は多分、冒険者か何かだろう。武器を携えているようには見えないから、専門は多分術式か、と見当をつけた。こんな場所でも無意識にそんな観察をしてしまうのは、職業病と云えるかも知れない。
 男はゆっくり歩きながら朱色の瞳で森の奥を眺めていたが、五味とすれ違うより前に、不意に立ち止まった。
(は……?)
 そして、金髪の男は五味の見ている前で90度右を向くと、そのまま道を外れて森の中へと踏み込んで行った。



「だけど、どうしてこんな仕組みになったのかな」
 呟くようにリサリサが云った。彼女は乾いた地面を払って腰を降ろし、両脚を手で抱え込むようにして座っている。黒犬の方は彼女と向かい合ってお座りの姿勢で話を聞いていた。
 ――仕組みって、何がだ?
「環の二重安全機構? ってやつ。主人が居なくなったら手近な人を勝手に認識しちゃうなんて、結構いい加減だよね。私なら最初から『誰であれ人間は攻撃できない』とかにするよ。これでも暴走防止になるよね?」
 ――連中が皆お前みたいに幸せな奴だったら、そうしたかも知れない。
「駄目なの? 良い考えだと思うんだけど 」
 ――勿論、駄目だ。
「どこが?」
 少女の無邪気な質問に、黒犬は素っ気無く答える。
 ――その仕組みでは、人を襲うのに使えない。また、“食事”にも制限が掛かる。
「え……」
 ――そうした用途は当然最初から考慮されている。事実、お前も俺を使って人間を襲った。
「あれは!」リサリサは言葉を詰まらせた。「……だって、山賊だったし」
 ――同じだ。
 少女は俯いて唇を噛んだ。あの日取った自分の軽率な行動の意味を、今更ながらに理解した。
 そうか。自分は亜獣を駆って、人間を襲撃したのだ。その事実の認識が、今頃になって少女に重くのしかかってきた。
「でもでも、他にもっと良い方法がある……と思う」
 ――確かにな。恐らく、本当は主人が居なくなった瞬間に絶命するようにしたかっただろう。だが、鬼に対して適用することを考えると、そこまで強烈な効果を発揮するものはまず作れない。そんなことが可能なぐらいなら、最初から行動を完全支配できただろう。だから“制約の環”は次善の策の積み重ねで成り立っている訳だ。
「また、気が滅入ってきた」
 ――別にお前が滅入る必要ねーだろ。環を作った連中にその脆弱な精神を分けてやりたいな。
「うん……でもさ、その人達って多分もう居ないんだよね? 随分時間が経ってるんでしょ?」
 ――ん? ああ、確かに、全員死んでるかもな。
「それだと環の外し方はもう判らないって事にならない?」
 ――なるな。連中の幽霊でも出て来てくれれば解決するんだが。
「ちょっと、気持ち悪いこと云わないでよ」
 リサリサが眉をしかめたが、黒犬はさも当然のことであるかのように続けた。
 ――いや。死者の存在概念が不安定な状態で残るってのは、そこまで珍しい事じゃない。いわゆる概念残滓ってやつだな。
「ええ? やめてよ。本当に?」
 ――ただ、会話ができる程高度な状態で残ることは通常有り得ない。仮にあったとしても、自然現象ならすぐに不安定になって消える。
「駄目じゃん」
 ――まあ、率直に云って駄目だな。
 そう云いながらも、余り深刻そうに見えないのは黒犬がこの状況を甘受し始めている所為だろうか。だったら良いのだけれど。
 リサリサがそんなことを思った時だった。遠くない場所で、がさり、と落ち葉を踏みしめる音がした。
 弾かれたように少女が音の方に顔を向ける。傾いた陽の中、木立の中に立っていたのは見た事のない男だった。微かな風が木立を抜け、男の長い金髪をさらさらと梳く。
「あ……」
 驚いて立ち上がるリサリサ。黒犬は男を一瞥すると大きく息を吐き、これ見よがしに厭そうな顔をした。
 男は目を細めて黒犬に視線を送ると、「久しいな。息災だったか? “ワン公”」
 そう言葉を放った。



 突然現れ、犬に語りかけた男を見てリサリサは混乱した。
「どうして……がじちゃんの事を……」
 男はそれにも答えず、ただ黒犬を見下ろして彼の返事を待っていた。
 ――お前が近付いているのは判っていた。こんな忌々しい匂いは、あまり無い。
「こんな時は、素直に再会を喜ぶものだ」
 ――できれば勘違いであって欲しいと祈っていたのだが、どうやら本物らしい。どうなってんだ? 死んだんだろ?
「何故だ? 悪いが至って健康だ。短命な同僚達は概ね土に還ったが」
 ――お前の寿命が尽きる程には時間が経っていなかったのか。これは、非常に残念だと云わざるを得ない。
 リサリサは会話の内容についていけず、ただ目を白黒させて男と黒犬を見比べた。
 ――だが、生きているなら何故俺の支配を解除している? 実は幽霊だと、今からでも云って欲しいところだが。
「その話は後にしよう」
 男はたおやかな手を翳して黒犬の言葉を制し、「この娘は何だ?」と、ようやく犬の脇に居る少女の方を見た。
「あ、えと、私はリサリサ・ネックベットといいます。あの……がじちゃんとお知り合いなんですか?」
 リサリサは思い切って男に訊いてみた。
「がじちゃん?」
 男が不思議そうな顔で反復した。
 ――このすかした男はアーデルハーン・メリァルーダという。簡単に説明すると、俺の前の支配者だ。
 黒犬が男に代わって説明を加える。男はようやく得心したような表情を浮かべた。
「ああ、“がじちゃん”ってお前の名前か。なかなか素敵な名を賜ったじゃないか。つまり、この子が今の支配者ということか」
 金髪の男――アーデルハーンが云った。その名前は、どこかで聞いた覚えがある。リサリサは記憶を辿り、それを思い出した。
「あの……アーデルハーンさんって、遺跡の発見者の?」
 リサリサの問いに、アーデルハーンは軽く首肯する。
「そういうことになってるね」
 やはりそうだった。初めてネーブブルグ遺跡に遊びに行った時、第一発見者はアーデルハーンという冒険者だというような話を聞いた記憶が、リサリサにはあった。
 ――待て。お前が遺跡の発見者だと? どういう事か説明してもらおうか。
「構わないが、その前にこの子には外してもらいたい。俺についての情報は余り広めたくないし、第三者が居ない方がお前も素直になり易い」
 ――まあ、その方が良いだろう。
 黒犬はリサリサに首だけを向けて、続けた。
 ――悪いが今日は帰ってくれ。俺は少しこの糞野郎と話がある。
「良く判らないけど、大丈夫なの?」
 リサリサが黒犬に問う。が、間髪入れずにアーデルハーンがそれに応えた。
「心配してくれて有難う。だが、俺はこの犬の扱いに慣れているから問題ない」
 ――素で云ってるのか? こいつが心配しているのは俺の方だ。
「冗談だよ。犬には少し高度過ぎたかな」
 アーデルハーンは口の端を歪めて嘲るような笑みを浮かべている。
 ――あ、そう。俺もこの馬鹿の扱いには慣れているから大丈夫だ。それより、お前にまでこの男の狂気が伝染すると困る。今は大人しく帰ってくれ。
「了解! 危なくなったらすぐ呼んでね!」
 ――あのな。俺の危機にお前を呼んで何かの足しになるのか?
「良い子じゃないか、リサリサちゃん」アーデルハーンは失笑した。「心配するな。俺はただ、くじ引きの結果を確認しに来ただけだ」
「……?」
 くじ引き?
 リサリサには男の云う意味が全く判らなかったが、これ以上追求するのは止めて森を離れることにする。
 黒犬に迷惑をかけるのは厭だったし、それに、実を云うと男の朱色の瞳が少し怖かった。



「少し変わったな。昔ほど荒んだ感じがしなくなった。あの子の影響だとすれば、良い巡り合わせだったと云える」
 少女が立ち去るのを見届けもせず、アーデルハーンは語り始めた。
 ――お前以下の主人など存在しようが無いから、必然的に巡り合わせは良くなるな。
 黒犬が憎まれ口を挟んだが、アーデルハーンは慣れた様子でそれ受け流すと、淡々と先を続けた。
「お前は精神的なバランスに少し問題があった。知識面では優遇されていたが、情操教育が欠けていたせいだな。思春期の少年みたいなものだ。まあ面白いからそれで良いと云ったのは俺なんだが、子供に飼わせるというのは案外良い改善方法かも知れない」
 ――どこが良い方法なんだ? 俺はあいつの奴隷でありながら、同時に保護者でもあるという困った状況に陥っている。
「それは、素晴らしい」
 ――頭でも打ったか? 今『素晴らしい』と聞こえたが。
「絶対的な弱者に触れる経験が、お前には必要だった。犬には多少難解だろうが、あの子と接する中でお前が育んでいるのは、ある重要な情念の萌芽だ。人はそれに特別な名前をつけて大切にしている……その呼び名を教えてやろうか? 凡そあらゆる言語において、その情念を表す単語は存在する」
 ――呆れが礼に来るとはこの事だ。お前のそうした発言にも素敵な名前がついているので教えてやろう。それは“妄想”とか“寝言”と呼ばれるものだ。ただし、これらは特に大切にされている様子はない。
「犬にしては良い切り返しだ」
 アーデルハーンは内心で会話を愉しみつつ、努めて淡々と続けた。
「しかし、自身の内面の変化を自覚したことでまた一つお前の感受性は先へと進む。更なる展望を見据えて今の内に忠告してやるが、異種交配は色々と無理があるから止めておけ。猫がアヒルの子を産めないように、あの少女がお前の仔を産むこともまた不可能だ。どうしても試してみたいと云うのなら、別に止めはしないが」
 云って、アーデルハーンが薄笑いを浮かべる。黒犬の口の端が引き攣った。
 ――どうやら、お前は俺に殺されたくてここまで出向いてきたらしいな。
 黒犬が四つ足で立ち上がって牙を剥いた。だが、アーデルハーンは些かも慌てることなく、穏やかに眼を細めて微笑を返す。
「冗談だ。からかい甲斐のあるところは変わっていないようで、安心した」
 ――そんな下らない事を云うためにわざわざ来たのか?
「実は、その通り。今のでもう用件の半分は済んだ。矢張り、お前を弄るのは面白いよ」
 ――それなら今度は俺の番だ。遺跡の発見者とはどういうことだ?
「言葉通りの意味だ。俺がネーブブルグの扉を開き、その在り処を町民や軍人どもに報告してやった」
 ――意図を掴みかねるな。遥か昔に廃棄したんだろ? 何故今更戻ってきて『発見』する?
「我々の研究を陽の目に晒したい……という訳ではない。謂わば、一種の遊びだ。敢えて言葉で表現するなら、『芯なる者の気分を味わうため』といった辺りか。知っての通り、“芯なる者”は現在地上には存在しない、とされている。だが、連中の影響は未だに各地に色濃く残っている。その最たるものが、お前達“亜獣”の存在と云えるだろう」
 ――あーあ。語り始めたよ。
「連中は非常に高度な知識と技術、そして豊かで蠱惑的に歪んだ想像力を駆使して、意味不明な生物を無数に生み出しては無責任に野に放った。何故だと思う? 無論、奴ら自身が楽しむためだ。何を愉しむか。思うに、それは超越的な立場からの観察だ。己の力が及ぼす影響をつぶさに確認しながらも、自身はその外側に立つという形だな」
 ――くだらねー。
「自らの投じた一石が、鏡の如く澄み切った水面に大きな波紋を広げていく。それを眺めるのは中々の愉悦だ。投じた石が実は爆弾だった場合には、より一層愉しめる」
 ――お前が好きそうな話だ。つまり俺は、お前が投げた爆弾ってわけか。
「まあ、そんなところだ。ただし、用意したのはお前だけじゃない」
 ――何?
「くじ引きだと云っただろう? 当然『あたり』と『はずれ』がある。片方は既にあの子が引いた。つまりお前だな」
 ――ち……。俺は貧乏くじ扱いかよ。
「もう一方も近い内に引かれるだろう。何が出てくるかは、見てのお楽しみだ。多分、お前も立ち会うことになる」
  ――どうせ『あたり』は後期被験体の鬼だろ。大体予想がつく。
 簡単な推測だった。自分より古い被験体は殆ど死んでいる。ならば、もう一方はより後期の被験体――実際に鬼種に環を植え付けたものに決まっている。
 それがこの男の云う『あたり』なのだろう、黒犬はそう考えた。ネーブブルグ遺跡の地下には、鬼の為に用意された専用の部屋があったはずだ。
「つまらんな。ほぼ正解だ。ま、後は楽しく観察と行こうじゃないか。これは損得勘定などの介在しない、純然たる好奇心だ。お前にもこうした高度な感情が理解できるだろうか?」
 ――心底くだらないと思うぜ。
「そう云うな。俺の気紛れが無ければ、お前は目覚めることすらなく、孤独な闇の中で朽ち果てていただろう。そう考えると、お前が今感謝すべき相手が見えてくると思うのだが」
 ――目覚めたところで、結局俺は環からは逃れられない。
「だが、必ずしもそれが不幸だとは限らない。現にお前は、あの子との主従関係を心地良く感じ始めている」
 ――またそれか。冗談も休み休み云え。そんなことは全くない。
「本当にそうかな?」アーデルハーンが口許だけで笑って、朱色の瞳で黒犬を見据えた。「では、試してみようか」
 ――なんだと?
「これが用件の残り半分だ。もしお前が望むのならば、今ここで“制約の環”を外してやろう。お前は自由を得る。もうあの子に付き合う必要は無くなるし、あの子の方にもお前を構う理由は無くなる。お前は何処へなりと勝手に姿を消せば良い。……さて、どうする?」
 問い掛けるアーデルハーンの眼差しは、黒犬が遠い昔に見た記憶のままだった。新たな課題を被験体に与え、実験し、観察する者の眼だ。
 その眼を見て、黒犬はようやく理解した。この男は、本当に自分の内面を観察する為に来たのだと。
 ――少し、考えさせてくれ。
 黒犬は答え、男から眼をそらす。そして、己の境遇と少女の存在について考えを巡らせた。



 翌朝、リサリサはいつものように憩いの森を訪れた。
 いつもの場所で道を逸れ、いつもの森の奥へと踏み込んで行く。
 ……そして、いつもの場所に寝そべっていた黒犬に声を掛けた。
「おはよー。くじ引きって何だったの?」
 伏せの姿勢を取っていた黒犬は、リサリサの姿を認めてゆるりと上体を起こす。
 ――おはよう。どうやら俺は『はずれ』のくじだったらしいぜ。
「ええー?」
 ――あの遺跡には『あたり』と『はずれ』の二匹が居たんだとさ。実にどうでも良い話を長々と聞かされた。『あたり』の方は多分、鬼だ。起こすと匿うのが大変だから、遺跡にはもう近付かない方が良いぜ。特に病院関係者が連れて歩くのには向いてない。お前の親父にもさり気なく教えてやれ。
「ふーん……」
 ふと思いついて、リサリサは満面の笑みを浮かべる。
「私は、がじちゃんの方が『あたり』だと思うよ!」
 云って、リサリサはばふんと犬に抱きつき、頬を寄せた。
 ――そりゃどうも。暑苦しいからくっつくな。
「照れちゃって!」
 ぼん、と黒犬の背を叩いたリサリサは、ふと真顔に戻って黒犬から身体を離した。
「前から思ってたけど、がじちゃんちょっと獣臭いよね」
 ――俺が獣臭いのは普通の事じゃないか?
「よし、今度お風呂に入れてあげよう!傷口染みるかな?」
 ――いや、傷は平気だが必要無いだろ、それは。
「何で? 気持ち良いのに。知ってるかもしれないけど、この森の南の方に小さい湖があるよ。水浴びでもして来たら?」
 ――独りで勝手に泳いで来いよ。
 ぷいとそっぽを向く黒犬は、何となく落ち着きが無いように見えた。リサリサは回り込むようにして犬の顔を覗き見る。
「……ひょっとして、がじちゃん、お風呂が苦手?」
 黒犬は一瞬躊躇するような素振りを見せたが、すぐに開き直る。
 ――当たり前だ。好きこのんで全身を水に浸すなど、考えられない愚行だ。
「へー。良いこと聞いちゃった。よし、ちょっと待っててよ!」
 リサリサが立ち上がる。黒犬の頭を厭な予感がよぎった。
 ――おい、まさか……。
「タオルとか持って来るから期待してて!しっかり水浴びさせてあげる!」
 リサリサは勢いよく数歩を踏み出してから立ち止まり、思い出したように振り返った。
「これ、もちろん命令ね」
 そう云ってにっこり笑うリサリサに、はいはいと黒犬は迷惑そうな呟きを返した。元気良く去って行くリサリサの背後で、黒犬はだらりと地に伏せる。木漏れ日の中で半ばまどろみながら、彼は遠ざかる少女の足音に聞き入った。

10ポイントの経験値を得た。

──End of Scene──
芯なる者は必ず朱色の目なんですかね、確かマギサもそうでしたし