他人のことは分からない。絶対に。
分かり得るのは自分のことだけ。
その誰かの存在は、わたしが存在しているから在る。
だって、知覚するのはわたしだから。
わたしに認知されている存在。
わたしの世界に確認されている存在。
(未確認飛行物体、のようなイメージ)
その見え方って、自分からの視点。
自分だけの視点。
つまり、人の数だけ視点があるということ。
その人その人だけの視点があるということ。
わたしはここ(自分の視点)からしか見れないから
他人のことは分からないんだ。
相手の視点に立ってみる。ってあるけど、
相手を透かして同じ位置に立ち、
相手の気持ちを想像して。。。
というようなイメージがあるけれど、
それでもやっぱり見てるのはわたしなんだよね。
想像するのもわたしなんだよね。
ある程度は想像できる。共感できる能力が人間には備わっているから。
でもそれもあくまで想像に過ぎないというか。
90%は分かるかもしれないけれど(数字は適当です。)
100%は分からない。
ということは、同じように相手側からもわたしのことって分からないんです![]()
長い間一緒にいるから、とかあてにならない。
何度伝わってないっていうことを痛感しただろうか。
わたしの全部なんて、誰も知らない。
そう思うと、人に期待するのもなくなると思う。
過度な期待はなくなる。
そりゃ分かって欲しいけれども、
分かって欲しいならば
それは言葉にして伝えていく必要がある。
わたしは先日、冷蔵庫にあった誰かが食べたくて買ってきたであろうプリンを食べたいなと思いつつ、
わたしのではないから放置していたけれど、
わたしのために買ってきたんだって。
よかったら食べて。って言われた時すごく嬉しかった。
わたしを想って買ってきてくれたこと、
そして、そのプリンがわたしの大好きなプリンだったこと!
これすごく好きなの!
と嬉しかった気持ちを伝えました。
この場合はわたしがこのプリンが好きだっていうこと知らないのにドンピシャだったけど、
プリン嬉しいけど、このプリンかあ、、惜しい!
ってこともあると思う。
その時も伝えるんだよ。
その時の気持ちを。
買ってきてくれたこと、嬉しいって。
そして、もっとこんなプリンならいいんだけどなあっていう希望も
伝えたいなら伝えればいい。
伝えるか伝えないかは自由なんだ。
ただ、自分のためにしてくれた嬉しさというより申し訳なさで
これじゃないんだけどな、、という気持ちを塞ぐっていうことだけは違うと思うから、
ちゃんと、残念がる笑
ただそれを見せるか見せないかは選べばいい。
見せるとするならば、伝え方はほんと大事!だと思う。
やっぱりここは、本心じゃないと届かないんだよね。
伝えるの勇気いるけど、
伝えることができたら、自分が嬉しい。
そして、聞いてくれた相手に感謝が湧く。
みんな違うってこと、当たり前って無い、
そこからのスタートで
愛のやりとりが生まれる。
人それぞれということを認識しておくことが全てのスタート。
コミュニケーションのスタート。

