前回の記事で書いた通り、私の実家である「古屋敷」は周りが一目置く旧家でした。
そしてご先祖さまの話しを子どもの頃から父に少しずつ教えてもらったことをざっくり説明しました。

父がご先祖さまの話をするときは、たいてい晩酌して上機嫌な時が多く、話も断片的で、聞き返そうとしてもまともな答えが返ってこないことがほとんどでした。
それでも父が発する「うちは平氏だった」、「逃げてきた」という言葉から、どうやらご先祖さまは源平合戦の折に、落ち延びた平氏方の一人だったのだろうと見当をつけていました。実際、私が住む栃木県には、平氏の落人伝説がある地域もあるので、不思議でもありません。

話しを聞いて感じたのは、正直ガッカリという気持ち。
だって平氏って、手塚治虫の『火の鳥』だと貴族にもたいそう大柄な態度でいいイメージがない。確か壇ノ浦の戦いでは安徳天皇も入水して、悲惨な最期で。。そんな虚しい結末を迎えた平氏側だったなんて残念。勝って華々しく幕府を開いた源氏の方がよかった。
それにご先祖様は逃げてきたってなんか惨めな気もする。。うーん、聞かなきゃよかった。。。と、子供心に思ったものです。その頃は歴史の知識も人生経験も乏しく、物事を多面的に見れなかったので、今なら違う受け取り方が出来たのでしょうが、この時の私には「負けて逃げた」ことに対してネガティブに思っていました。


そして月日は流れ私が三十代になったぐらいのこと。断片的な情報しかくれない父がある時、固有名詞込みで具体的な話をしてくれたことがありました。

「うちのご先祖さまはナァ、平家の女性のお供として、さだよしと一緒に塩原まで逃げてきたんだぞ。その女性は尼さんになって塩原に庵を建ててなぁ。。そこは今はみょううん寺っていうお寺になってるんだわ。ほんで尼さんの菩提を弔うために塩原にいたっつう話しなんだぞな。うぃっく。。飲み過ぎちまったな。お母さん、そろそろごはんよそってくれや。」(こてこての栃木弁のイントネーションでお読みください)

「さだよし。。。?」
「みょ、みょううんじ。。。??」

。。。えっ、何その話し。もっと詳しく話してよ。ごはん食べてる場合じゃないよ。大事な話しでしょ。しっかりしてよ、お父さん。

詳しく知りたい私の心中とは裏腹に、ごはんと味噌汁をかっこんで上機嫌で風呂に入ってしまった父にこれ以上何を聞いても仕方ないので、部屋に戻って自分でネットで「さだよし」と「みょううんじ」について調べてみました。
検索して得た情報は、「さだよし」とは「平貞能」のことであり、清盛、重盛の側近であり、平氏滅亡後の1185年6月に下野国塩原の地に宇都宮朝綱を頼って落ち延びたとされている。
そして「みょううんじ」は塩原にある臨済宗のお寺であり、重盛の妹(姨ともいわれ諸説あり)である妙雲禅尼が貞能とともに逃げて、この地に草案を作ったののが始まりとされる。

このネットの情報はこれまで聞かされたご先祖さまの話しと見事に整合性がとれていました。
つまり、ご先祖様は妙雲禅尼のお供として貞能とともに塩原に逃げてきた。そして妙雲禅尼の菩提を弔うために塩原にとどまった。


今思うと「さだよし」、「みょううんじ」この2つのワードが父の口から出てきたあの時。。
それは昔話や歴史の授業、漫画のイメージとごちゃ混ぜに結びついて自分とはどこか遠い世界の話しとして捉えていたご先祖様の話しに、色と立体感がつき始めた瞬間でした。
そしてそれが入り口となって、ご先祖さまの歴史を辿るため、方向も定まらないままにがむしゃらに突き進む長い旅の始まりとなりました。