震災から25年なのですね。


私は大学入試のために電車の通らぬ神戸の町を抜けるのに顔をあげることすら出来ませんでした。怖かったのです。

災害に直面した時にはキビキビと救援活動ができる自分に違いないと思っていた自分は、特に被災してないのに何日たっても恐怖に身動きできない人間でした。


2050年までに、世界の炭素排出量が酸素生成量と等しくなるカーボンニュートラル状態にならないと「壊滅的な気候変動が避けられない」と、強く警鐘が鳴らされ始めた今。私にはどこか現実感がありません。


あと30年。これは遠い?近い?


震災から25年。

長かったか?     長くなかった。


テレビで亡くなった親と同じ歳になった子どもが 亡くなった親に語ってました。

地震が来るなんて思ってなかってん、誰も知らんかった。怖かったよね。


これからどんどん地球温暖化による大災害が増えていったとして、被災した自分の子、そのまた子に、誰もこんな風になるなんて知らんかった、誰にもどうにもできんかった、怖かったね、なんて


言えるか? 


怖い と思うと 今も身が震え動けなくなる。

できることなら知らぬ存ぜぬ関係ないと してしまいたい。

それで面倒なく平穏に、ずっと幸せに過ごせるなら。


こんな時代だからこそ

実相に導かれ 明るく。怠慢でなく できる努力を。


子どもに面と向き合える自分に変わっていきたい。100のうち0.000001%でも。





昨日は息子と遊びがてら 少しですがゴミ拾いを。


植え込みの奥に大きな敷物を見つけた息子、思わず私はひるむも息子はガシガシ進んで、手伝って!と。

息子に引っ張り出せるものではないので交代すると、大声で 頑張れと応援してくれる息子。あぁ外野いませんようにと思ってしまう私。


大物が取れたね!やったね!と大声で腕を突き上げて喜ぶ息子。

プラの敷物を突き抜けて生きんとしている木。


100均で さらにプラを買ってしまうことの簡単さ、たかが数分数メートルのゴミ拾いのハードルの高さちっぽけな私の現実。でもゴミ拾いやれて、ホッとしました。息子に助けられ、救われてるのは私です。