[Van Dusen]

Henry Pitney Van Dusenは1897年に、東海岸、ニューヨーク州の西隣のペンシルバニア州に生まれた人物で、YMCAの活動に深く関与していた、国際的な基督教の統一を志向する考えの人(International ecumenist)だったらしい。おそらく中国で活動していたわけではなかったが、1938年9月、10月頃には中国にいたらしい。上海、日本、満州国、北支、重慶などをおそらく回ったらしい。

 

 

[雑誌・基督教の世紀(The Christian Century)]  

基督教の世紀(The Christian Century)という当時は週刊の刊行物があり、その前身はDisciples of Christによって創刊されたThe Christian Oracle(1884-、基督教の言葉(?))で、1900年に名前を改め、1908年にチャールズ・クレイトン・モリソン(Charles Clayton Morrison)により購入され、非教派(nondenominational)のものとされたらしい。

 

プロテスタントというものが1800年代から、自由神学的なものと、聖書に忠実にというような考えの人とに分かれて行ったらしいが、この刊行物は前者の方だったらしい。

 

Disciples of Christもそのように二つになったが、ベイツも前者的な側だった。

 

 

[刊行物へのVan Dusenの寄稿とベイツの会報への寄稿]

このThe Christian Centuryの1938年11月16日号に、Van Dusenの10月15日香港と記された寄稿がある。

 

しかしながら、この寄稿の記述は、米国の会報・中国情報提供(China Information Service)の1938年12月20日号に掲載された、Christian Educator in Chinaにより用意された12月16日に受け取ったという文章と被っている。

 

その会報は、1937年9月から、当時休暇で米国にいた中国生まれの米国人宣教師フランク・プライスらによって、フランク・プライスが8月に、当時の中国の外電検閲担当で、10月からは国際宣伝の主任となった董顕光に連絡をし、そのあとに始められたものになる。

 

そのChristian Educatorは、ベイツだと思う。

 

以下に二つの寄稿の一部を見る。どちらも分けて記しているが改行はない。

 

1938年10月15日付 香港 ファンドゥーゼン(?、Van Dusen)

|中国の最大の危機/China's Greatest Danger

|The Christian Century 1938年11月16日号

2. Japan is conducting her aggression with ruthless cruelty unprecedented in modern times.

 

(日本は現代(modern times)に前例のない無慈悲な冷酷さを伴ってその攻撃を行っています。)

 

The conduct of her troops in Nanking was not an exceptional outbreak, provoked by reaction from a nerve-racking campaign. In less extreme concentration it characterizes the day-by-day behavior of troops and police throughout occupied territory.

 

(南京における軍隊の行いは神経が過敏になるような(nerveracking)戦闘からの反動によって起こった例外的な発生(outbreak)ではありませんでした。極端ではない程度・濃度(less extreme concentration)で、それは占領地域全域での軍と警察の日々の行いを表しています(characterizes)。)

 

In the larger cities there is now on the whole good control and order. But in communities remote from foreign observation almost a state of terror prevails; no man’s property or woman’s honor is safe from day to day. 

 

(より大きな街では、現在、全体としてよい統制と秩序があります。しかし、外国の観察から遠く離れた地域(communities)においては、恐怖(terror)の状態が広がっています(prevails);日々、男性の財産も女性の名誉も、無事であるものはありません。)

 

[...]

 

These are not exaggerated charges built up from third or fourth hand rumors or from Chinese propaganda. They are reports of observations by the most experienced and responsible Christian educators and missionaries in the territory concerned.

 

(〔…〕これらは三次的、四次的な噂や中国人の宣伝(propaganda)から組み立てられた誇張された非難(charges)ではありません。これらは、関係している地域(territory)における、最も経験を積んだ、最も信頼できる、基督教の教育者や宣教師の観察の報告です。)

 

 

1938年12月16日に会報が受け取った匿名のベイツの寄稿

|中国の最大の危機/CHINA'S GREATEST DANGER 

|基督教徒の教育者/a Christian educator

|China Information Service 1938年12月20日号

Japan is conducting her aggression with a cruelty and barbarism without precedent in modern times. 

 

(日本は現代(modern times)に先例のない残酷さと野蛮さをもってその攻撃を行っています。)

 

The outrages in Nanking and Shanghai were not exceptional incidents provoked by loosed passions after a nerveracking campaign; in less extreme concentration, they represent the day-by-day conduct of Japanese troops throughout occupied territory. 

 

(南京と上海における暴力(outrages)は、神経が過敏になるような(nerveracking)戦闘の後に緩んだ強い感情によって引き起こされた例外的な出来事ではありませんでした(were not exceptional incidents)、極端ではない程度・濃度(less extreme concentration)で、それは占領地域全域での日本軍の日々の行いを代表しています。)

 

 In larger cities, soldiers are held fairly well in check and there is every evidence of orderly behavior. But, in communities remote from foreign observation, no man's property or woman's honor is safe from day to day. 

 

(より大きな街では、兵士は非常によく抑制されており(are held ... in check)、秩序だった振る舞いのあらゆる証拠があります。しかし、外国の観察から遠く離れた地域(communities)においては、日々、男性の財産も女性の名誉も、無事であるものはありません。)

 

[...] These are not exaggerated propaganda build up from third and forth hand rumours. They are statements of fact based on first-hand day-by-day observations of the most experienced and responsible Christian educators and missionaries in North China. 

 

(〔…〕これらは三次的、四次的な噂から組み立てられた誇張された宣伝(propaganda)ではありません。これらは、北支の、最も経験を積んだ、最も信頼できる、基督教の教育者や宣教師の、直接の、日々の観察に基づく、事実の記述です。)

 

 

 両者は明白に同じものになる。

 

 それぞれの記述においてそれぞれ少し言葉や表現が異なるのはVan Dusenによるのだと思うが、a Christian educatorの文書が、この記述についてそのままなのかはわからない。つまりこの記述を少し変えてVan Dusenのものがあるのかどうかわからない。

 

 Van Dusenが受け取ったのだろう文書とこの寄稿されたa Christian educatorの文書は、おそらく少し異なると思う。

 

 まず、後者は単に編集されていると思う、つまり前者よりも短い。加筆や修正についてはわからない。

 

[南京と上海についての記述について]

 引用箇所については、気になるのは、Van Dusenの方では南京のみが記されていることになる。

 

10月15日付香港 Van Dusen

The conduct of her troops in Nanking was not an exceptional outbreak

 

12月16日に会報に受け取られた文書 a Christian educator

The outrages in Nanking and Shanghai were not exceptional incidents

 

 初期文書を想定するとして、そこでは南京のみで、ベイツが会報に文章を送る際の編集において上海を加えたのか、そこでも南京と上海とあり、Van Dusenが上海を削ったのか、ということを考える。

 

 まず、南京と上海と並べるのは無理があると思う。

 

 一応南京が先に記されてはいるが、以下の記述を、南京についてはベイツが記し、上海についてはベイツが受け取っている。

 

[南京について|1938年1月10日付のベイツの手紙]
More than ten thousand unarmed persons have been killed [...] There were Chinese soldiers [...] and civilians [...] including not a few women and children.


(1万人以上のunarmed personsがkilledされた〔…〕中国軍の兵士〔…〕そして市民〔…〕少なくない女性と子どもを含む。)

Able German colleagues put the cases of rape at 20,000. I should say not less than 8,000, and it might be anywhere above that.

(Ableなドイツ人の同僚たちはrapeを二万と見る。私も八千を下回らないと言うべきだろう、そしてそれはそれよりも上のどこかになるかもしれない。)

 

 

[上海について

 |1938年3月28日付ティンパーリのベイツへの手紙]

In your letter you ask why I have done nothing about Shanghai, Sungkiang and Kashing. [...] When we looked into the matter we found that there was very little authentic evidence of Japanese outrages against the civilian population around Shanghai and ... 

(お手紙のなかであなたは、私が上海、松江、嘉興について何もしていないのは何故かとお尋ねになりました。〔…〕その点について見てみたところ、上海周辺における市民への暴力のはっきりとした証拠はほとんどない(was very little authentic)、ということがわかりました、)
 

 

 また以下のような記述もある。

 

1938年4月22日 呉耀宗(ご ようそう)、基督教徒、YMCA

|前年米国におり、3月に香港、上海と戻ってきた

I have been back in Shanghai now for almost six weeks and I want to share with you some of the impressions I have gained. [...] I found everything quite normal. [...] No wander people here called Shanghai a 'solitary island' in the midst of a sea of hostility.

(私が〔米国から一年以上振りに〕上海に戻ってきてからもう殆ど六週間になります。私が得たいくつかの印象を皆さんと共有したいと思います。〔…〕すべてが至って普通であるということがわかりました。〔…〕ここにいる人々が上海を、戦闘の海のなかの'孤島'と呼ぶのも不思議ではありません。)

 

 

 南京と上海を並べることには無理があり、また普通並べることはないと思う。

 

 

[ベイツの南京以外についての記述などについて]

 ベイツは1938年1月から1946年4月のC. Y. Hsuの文書まで、複数回南京は例外ではない、ということを書いている、また指示や依頼、関与によりそのような記述がある。

 

 1938年3月3日付のティンパーリへの手紙では、色々の理由を述べたりし、かなり強意に南京以外の地域における不法行為の話を求めている。

 

 これなどが、ベイツが、南京について盛って記し発信したために、南京以外の他の地域の話が求められているのかということは、やや判断がしづらいと思う。

 

 ベイツには、日本軍、日本の評判を落とす、悪いものにするという姿勢があり、その姿勢による記述、発信としては、あらゆる場所で、あらゆる種類の、あらゆる規模の、というように書きたがっており、書いている。

 

 また、それとは関係なく、ベイツには単に、網羅的な思考や記述の志向があると思う。

 

 上の1938年3月3日付のティンパーリへの手紙などは違和感というか、気になりもするが、その二つがあるので、南京は例外ではないという記述は、どのように記されているのか判断がしづらいと思う。

 

 どういう理由で南京と上海と並べて書かれているのであれ、少なくとも無理のあるものになると思う。

 

 

[南京と上海についての記述について]

 初期文書にも南京と上海とあり、Van Dusenが削ったのなら、それは普通の感覚だと思う。

 

 初期文書にあったのであれ、初期文書にはないが会報への寄稿のための編集の際に加えたのであれ、それは無理があるものだと思う。

 

 

[経緯]

 ベイツは1938年の夏には日本におり、9月には南京に戻ってきたらしい。

 

 経緯はわからないが、Van Dusenとして寄稿したことについては、ベイツの求めがあって、Van Dusenがそれに応じたということになると思う。