ちょっと最近気持ちが凹み気味なのと、どこにも出かけられないから日記を書く手をサボってしまった。
凹んでいるといっても、別に何か悪いことが起こったわけでもなく、世の中自粛ムードなのに、なんで自分は働かねばならんのだ、みたいなちょっと前に書いた不公平感が頭にムクムクっと起きてきて、それを日記にでも書こうかと思い、それなりに長文を書いたのだが、なんかあまりまとまりがない文章になってしまったので、今回こうやって別の形で書こうとしている。
さて、自分は相変わらず会社で仕事をしているのだが、世の中はもうすぐゴールデンウィークとなる。
当然、というか、自分も4月の末から5月にかけて、世間並みの連休はある。
ゴールデンウィークも結局、不要不急の外出は避けてくれということで、自分はそんなの毎日畑に行ければそれで全然オーケーなのだけど、他の社員たちはそうでもないらしい。
どうやって過ごせばいいのかみんないろいろ話していて、中にはパチンコも行けなければ家で毎日酒を飲むしかない、とかいう連中もいる始末。
酒を飲まない自分にしては、そういう発想がどこから出てくるのかそちらの方がよくわからない。
自分は下戸である。
酒が飲めないと言う事は、とてもハンディキャップだと自分では感じていた。
やっぱり酒があっての人付き合い。というのが特に若い頃の自分の考えだった。
しかし最近になって、上記のような「酒を飲むしかやることがない」ような人たちを見ると、昔はハンディキャップだと思っていたことがそうではないように思えるようになってきた。
みんなこの世の辛さを酒でごまかして生きていくのだ。
じゃぁ酒が飲めなくて酔うこともできない自分はというと、辛いことも何もかもすべてしらふで受け止めているということになる。
これってなんだかすごいことじゃないかと最近思えてきた。
昨日寝床でYouTubeの哲学を解説する動画を見ていたら、長女が「なんで宗教が存在するのか?」と、尋ねてきた。
それは、「人間が世の中の理不尽を受け止めるため」だ、と自分は答えた。
宗教が発達する前は、その役目は哲学が担っていた。
イエス・キリストが登場して、キリスト教が世界に普及すると、その役目は宗教に委ねられた。
それから数百年の間、哲学は長い停滞期を迎えるのだが、中世の暗黒時代を抜けると、今度は宗教と哲学が互いに競いあう時代となった。
そして、現代。
長女が自分に質問してきたように、普通に生活していると哲学も宗教も我々から縁が遠い存在となった。
それは何故かというと、現在はその役目を科学が担っているからだ。
世の中の理不尽さの解決は、「はてブ」や「Yahoo!知恵袋」が担うようになった(笑)
世の中というものは、われわれ人間が一人一人では抱えきれないくらい複雑で理不尽なものなのだ。
自分の子供がいわれもない理不尽な死に方をしたとすると、その心のよりどころはかつては宗教に頼るしかなかった。
しかし現在はまず法的判断、そしてそれでも満足した回答が得られない場合はソーシャルメディア、それでもまだ納得できない場合は、宗教に頼るというくらいの順番だろう。
宗教にさえ行けない人間は、自分の頭の中で理屈をこね回すか、精神的に病むしかない。
1番最初に自分が書いた、みんなは自宅で仕事をしているのに自分は始末書とかに怯えながら、なんでこんなしんどい仕事をせにやいかんのだという回答については、実は自分の頭の中で一応答えは出ている。
自分が他人の“労働するという特権”を行使しているのだから、自分が働くしかないと。
つまりは自分が会社で働いているというのは、他の人間が今この働いている会社で働くというチャンスを奪っているということでもある。
だから自分は働くのだ。
人間というのは実は性能的にはみんな一緒なのだ。
なので、フォレスト・ガンプのようなアスペルガーの人は、他人というノイズがない世界に生きているので、その分他の能力が秀でている。
もっとわかりやすい例え方をするのなら、視力がない人はその分聴力が発達するように。
お、おう、何か話がよくわからなくなってきたが、自分はこの世の辛さを酒で逃げることができない代わりに、多分そこら辺の人よりはたくさんの趣味を持っていると思う。
こうやってブログを書いたり、本を読んだり映画を見たり、パソコンでいろいろごちゃごちゃやったり、畑仕事をしたり、料理を作ったりお菓子を作ったり、その他諸々のDIYや部屋の片づけをしたり。子供と一緒にゲームをしたり。(子供と一緒に)ガンプラ作るのもいい。
だから、出かけなくても全然OKだ。
なんなら人の少ないところへ写真を撮りにふらっと行ったり。
いったい何が問題あるのかよく分からない。
そりゃ当然、畑がある奴はいいよな、と言う人もいるだろう。
しかし、自分はそれと引き換えに都会生活というものを手放している。
ついでに言えば、今自分が畑として使っている土地は、十数年前までは一面ススキの原であった。
それをどうせ定期的に草刈りしなくちゃいけないなら、せめて自分の好きな植物を植えてやろう、と全てススキを掘り返して作った土地だ。
そしてその動機になったのが、自分は食べるのが好き、ということだ。
どうせ食べるなら、世の中にあまり出回っていないものが食べたい。
その思いが自分を突き動かしている。
今年は、2年前から再び土地を全て掘り返して、ラズベリー畑を今までの経験で復活させようとして、今のところ上手くいっている。
楽しい。楽しすぎ。
今年は久しぶりに大量のラズベリーが食べられそうだ。
子供が久しぶりにお菓子を作ってくれ、と言う。
そういや最近ゲームばかりやって、お菓子を作っていない。
ゴールデンウィークは毎日何かお菓子を作ろうか。
普段あまり作らないシュークリームやアップルパイなんかもいいね。
パフにクリームを詰めたり(イチゴを入れたらべらぼうに旨くなる)、パイ生地伸ばしたりするのは絶対子供は喜びそう。
長女が小さい頃はよくやったけど、次女が大きくなってからは全然やっていない。
長女が高校生になった記念に、彼女の小学校からのクラブ活動の写真でフォトブックを作ってプレゼントしたいと考えて、Photoshopの練習も兼ねて画像データを作った。
A4サイズで50枚くらいかな。
しかし、もうほとんどできている状態でまだ最後のネット上での注文をやっていない。
一応作ってはみたものの、写真がない場合は動画から切り出したり、日付はいまいちよくわからないものがあったりとか、なんかチェックしだしたらキリがないからだ。
まぁ、それも終わらせておきたい。
次女が急にSwitchでマイクラしよう、と言い出した。
なんで今さら、お父さんは忙しいんだ、と断っていたのだが、休みの日にコントローラー渡されて、久しぶりに次女とマイクラをした。
最初は渋々という感じだったけど、やってみるとやっぱりそこそこ面白いわけで、自分が食べ物の用意をしていたら、娘がベッドや家なんかを(適当に)作るもんだから、その家を見て「今回はどういうプレイをしようかな」なんて考えている自分がいる。
最近次女がよく遊んでいる友達と話をしたら、彼女はパソコンでマイクラをやっているらしい。
彼女に「なんでパソコンでマイクラやらないの?」と問われたのだが、画面分割で表示域が狭くなっても、同じ画面を見て隣同士でわいわい言いながらやるのが好きなんだ、と答えた。
で、ああ、なるほど、娘が急にマイクラと言い出したのはこの子の影響か、と。
次女とは幾度となく一緒にマイクラやっているのだが、こっちはわりと実務一辺倒で、途中で娘が暇になってしまうことが多く、それをどこまで興味を持たすことができるだろうか、とか考えてしまう。
他にも、他所の子から見たら、自分は楽しいお父さんらしい。
長女の時もそうだったが、自分と娘が会話しているとまるでコントをやっているよう。
他人が見ていたら盛り上がるよね。
子供らは毎日が日曜日みたいなもんなので、夜こちらが寝ようとすると、やたらと話しかけてくる。
どーでもいいことばっかりで、いい加減にせいよ、こっちは明日も仕事なんじゃ! とその時は思うけど、後で思い出すと、これもまたいい思い出になるんだろうな、としみじみしてみたり。
そうだな、おいしいものを食べたいとか、面白いものを見てみたいとか、楽しいゲームをやりたいとか、そういう基本的な欲望に、子供が関わってくることにより、自分が作ったものをおいしいと言わせたいとか、面白いものを見せて感心させたいとか、面白いゲームで共同作業をしてみたいとか、自分のやりたいことに幅が広がるんだ。
ゴールデンウィークは人混みに行ってはいけないのなら、滝を見に行こうと次女に言ったら、あっさり断られた(笑)
長女は、そんなら毎朝男山(姫路城の西側にある山)に登りに行きたい、なんて言う。
連休中1日ぐらいはね、車で人気のない場所をぐるっと回りたいと思う。
仕事の件を除けばわりと自分が思っていた楽しみをゲットしていることに今さらながら気づいた。
嫁さん選びの時点から、お金に不自由したくないと思っていたので、嫁さんには悪いけど、わりと自由にお金を遣える生活をしている。
20年前はまだ自分は結婚していなかったことも考えると、今から20年後これがどうなっているのか考えると楽しいし、とりあえず目の前のやりたいことややれることをやっておこう。
というのが、世の中の理不尽に対する自分なりの回答なんだと思う。
でもねぇ……結局連休中は一日中ゲームやってて終わりそうだけどね(笑)
という日記を、会社の階段を上り下りしながら書きましたよ、と。
あー、暑い。だいぶ暖かくなってきたよね。