前回は人類はどこからきたのかということは推定できるけれども。どこへいくのかについては分からないと書いた。個人の命についてもそうです。昇天するという教えもあり、輪廻するという教えもある。自然に還るだけという思想もある。もっと大きな宇宙意識に吞み込まれるという考え方もある。どれが本当か、この世を去ってみないと分からないのだが、意識が脳の働きであるとすれば一切は肉体の消滅とともに無くなる。無に帰するという考え方に傾いてしまう。

 私のこれまでの生き方の反省としては多々あるが、そのなかでもコミュニティを軽視してきたことである。若いときは、家族の絆さえ解き放ち新天地へ行きたくなる気持ちはだれにもあろうが、それを実際に移すことはまた違う。けれども高校を卒業して以来大学、就職を通してそれを実行してきた。

 私は同窓会というのが嫌いで、そこでのつながりをビジネスに利用することなど考えたこともない。この気持ちは、大学へ勤務していたときも同じで自分の勤務している同窓会が各地に支部を持ち年に1回集まっているときに。役職上挨拶に行かなければならないことを除いては他人事として対応してきた。

 私の研究室出身の学生は100人ぐらいになるが、在学中は一生懸命に面倒を見て、就職まで世話をするがいったん社会に出た限り自分で運命を切り開けという態度で接してきており、研究室出身者でのOB会もつくらなかった。

 退職後は全く地縁、血縁もないところを山形や東京に行ける中間地の那須を選んだ。ここは特殊な地域でかつてバブルの時は別荘地として人気のあるところで、多数の地元民以外の人がたまに来るか定年後に永住するところでもともと地縁のコミュニケーションがないところである。まして、出身地でもないから小中校、高校の知り合いもまったくいない。

 東北大震災の避難住宅で孤独死が年間500人を超えたという報告がある。いわゆる地縁のあるコミュニティから切り離されて、新しい近所とのコミュニティができないまま高齢化していき、つれあいがなくなって結局は孤独死するというケースが増えているのである。社会全体がアメリカ型の個人主義に追随して大家族主義はとっくに崩壊しているあげく、災害避難で地域がバラバラになれば、コミュニティが崩壊するのは避けられない。

 残念ながら「FB」であれ、「X」であれ、SNSではコミュニティは作れない。

 老人は「散る桜、残る桜も散る桜」という心境で、孤独な生活に粛々と耐えていくしかないかも知れない。