第4回と第5回の旅のために相馬から仙台までを残しておいた。この地域はいろいろな意味で私の思い出の地であるので最後の旅のためにとっておいたのである。

 第4回目の訪問は、冬に入って天気を見ながら日帰りの旅として自家用車を駆った。目的地は相馬市だけである。相馬は亡妻の母親の出身地である。松川浦で遊んだ話を聞いていた。野馬追いも祖母と亡妻と3人で見物に行った。松川浦は原釜漁港のすぐ近くにある。このたりは当然津波の被害が大きかったはずであり、家屋が流された跡地は工場区域として整備され、近くには火力発電所も新設されていた。今は、そのような工場群を背負っての海水浴場になっている。1日はこの海岸を見ていることで終わりにした。

 その次は今年の2月に相馬市から石巻市へ北上した1泊2日の旅とした。相馬市を出ると宮城県に入り山元町となる。この町には震災遺構として中浜小学校がある。児童や避難民は津波が来る前に高台に避難して助かったようであるが、校舎はめちゃめちゃになったままで保存されている。

 山元町から岩沼、名取市へ入る。名取市は仙台市の郊外である。また仙台空港の近くでもある。仙台市から退職後は気候も温和な名取市で海をみながら余生を送りたいと人気の土地でもあった。閖上浜もあり、学生時代には海をみるためにときどき友人と来ていた海岸であるが、津波は近くの名取川を遡上した。河口に近く伝承館があるが周囲はなにもない原野と化している。ここを襲った津波は仙台空港まで達した。

仙台空港は滑走路が水没し、駐車場の車はすべて流された。

私の知り合い3人も車を失った。そのうちのひとりは空港周囲の民間駐車場に預けていたが、車はもちろん管理者の親子まで流されて犠牲なったと聞いた。

 名取市から仙台市へ入る。仙台市には荒浜(深沼)といわれる海水浴場がある。仙台市中心部から近いこともあり、学生時代にはよく海水浴に出かけた。その海水浴場は閉鎖のままである。荒浜には荒浜小学校がある。コンクリートの4階建てであり、2階までは津波が侵入したが、3,4階は無事で近所からの避難民を含めて屋上に上り助かったが、そばにには200から300の遺体が浮いていると第一報があったのは屋上からの目撃談である。この地域も退職者には人気のある引退地で、犠牲者の碑にある名簿を見ると圧倒的に70歳以上の犠牲者が多い。

 さらに北上を続けると塩釜市、松島町となるが、この地域は比較的津波被害が大きくはなかったところである。五大堂のある海岸通りは観光客で賑わっていた。

 松島を通り過ぎると東松島市に入る。自衛隊基地もここにあり津波浸水で自衛隊機が被害を受けたところである。伝承館は昔の仙石線の野蒜駅にある。野蒜駅のホームは震災遺構であり仙石線の線路もぐにゃり曲がっている。現在の仙石線は山よりの高台を通っている。

 伊賀市松島市の先は再び石巻市である。前回の旅では石巻市を起点としたが、石巻市の南側はまだ訪ねていなかった。

 石巻市は津波浸漬面積が市町村ではトップである。震災遺構として旧北上川河口近くに門脇小学校がある。ここの児童、教職員は裏が日和山公園と高台になっており、整然と全児童が避難してひとりも犠牲者を出さなかったが、津波襲来とともに火災もあり、校舎の南に面する教室は津波と火災で黒焦げとなった。避難してきた住民と残った高職員は教壇を2階の裏山にかけて避難して犠牲者を出さなかった。

 

 同じ石巻市でも児童全員が犠牲になった大川小学校、犠牲者を出さなかった門脇小学校、この差はなんだろう。避難訓練の差、地理的な条件などさまざまな要因が絡んでいるのであろう。この日は石巻市に1泊してから帰った。

 これで震災遺構・伝承館めぐりの旅はすべて終わった。鎮魂の旅であるから各地で犠牲者のご冥福を祈った。