やはり昨年の秋の中旬ごろであるが、二泊三日の旅に出た。今回は仙台まで新幹線、仙台から石巻までは仙石線。石巻駅でレンタカーを借りて牡鹿半島を巡ってから釜石まで北上する旅に出た。

 牡鹿半島はリヤス式海岸各所で小さな湾をつくっており、そこが漁港になっている。平地が少なく湾の後ろはすぐ山地になっているところが多い。牡鹿半島の先にでれば金華山がすぐ目の前にある。

 東日本大震災では漁港はすべて津波の被害を受けて、多くの漁船も流された。もちろん漁港に面していた多くの家屋も流された。幸い、うしろが山になっているので避難はなんとかできたようである。小さい漁港は新しく堤防もできて復興したように見える。なかでも鮎川漁港クジラの水揚げで有名な港である。家屋が流された土地には「ホエールタウン おしか」という伝承館と観光施設ができており、クジラ料理を提供する食堂も開いていたが、観光客はまばらであった。陸には大きな貨物船が乗り上げてそのままであったのが印象的である。

 牡鹿半島の北側、女川町に近いところに名振港がある。ここは亡妻の父親の出身地でもあったので坂を下って漁港まで出て見たが、坂道に沿って被害がなかった家屋はあったけれども新しく堤防が設置された漁港には人影はなかった。実家は流されてこの地を離れたと聞いている。

 この夜は女川町泊まりであった。翌日、女川町駅前にくると震災遺構として堅固なつくりの駅前交番がひっくりかえっていた。女川には東北電力の原発があるが、少し高台に設置されていることや外部電源が失われなかったこともあって、すんでのところで事故は免れた。

 

  

 

 女川町からいったん石巻市の北部に位置する北上川のほとりに来ると震災遺構として大川小学校がある。長渕剛の紅白歌合戦もあり、児童・教職員七〇名のほとんどが津波にのまれたことで有名な遺構であるが、慰霊というより少し観光地化していることが気になった。

 さらに北上すると南三陸町になる。海からさほどはなれていないところに旧防災対策庁舎が震災遺構として残されている。最後まで町内放送で大津波が来ると町民に対して避難を呼びかけていた若い女性もそうであるが、3階屋上に避難した職員や避難してきた町民も屋上を超える高さの津波にのまれてしまったというところである。哀悼の念を禁じ得ない。

 

 

 そのまま、北上して気仙沼に入る。気仙沼では海にちかいところに伝承館と遺構として気仙沼向洋高校が残されている。2階までの校舎はぐちゃぐちゃに津波で破壊されたままである。幸い生徒、教職員は避難して無事だったこと、校舎に残った教職員の一部と学校に避難してきた住民は4階屋上に避難して難を逃れたと聞いている。

 

 いよいよ岩手県の陸前高田市に入るが、ここは復興祈念公園内に伝承館と奇跡の一本松で知られる。一本松はすでに枯死して復元した松となっている。この一本松の海側にはコンクリート2階建てのユースホステルの型枠だけの残骸が残っている。このユースホステルの陰になりたった一本だけ助かったそうであるが、あの広い祈念公園がすべて家屋が流された後であり、今はまったく海が見えない高い堤防で守られているが津波の直撃を受けた家屋が多数あったことと思われる。付近に高台がなく田野が広く広がっており、避難はあまりできなかったのではないだろうか。人口約25,000人のうち1700人あまりの犠牲者で岩手県は最大である。

 陸前高田市から大船渡市へ行く途中には道路脇に4階建ての大きなアパート(旧下宿促進住宅)がその骨組みだけを残しているのが見える。その晩は大船渡市の碁石海岸の宿に祖泊った。その宿も1階部分が津波浸水を受けたが、流されずにすんだので復旧できたということであった。次の日は北上市にでて新幹線で帰ってきた。

 簡単に要約したが、重たい旅であった。