■ルンバを信用しますか?
ルンバ人気みたいですね。価格.comで見たら値段も3万円くらいと自分用じゃなくてもプレゼント用とかに良さそうですね(かぶったら目も当てられないけど)。
それにしてもルンバってどう考えてもハインラインの「夏への扉」に出てくる「文化女中器」がモデルとしか思えない訳で、読んだことある人なら誰しもそう思ったんじゃないでしょうか。
それにしても「夏への扉」はちょっと前に新訳が出ました。福島先生の名訳をわざわざ直す必要なんてどこにもないんですが、昨今の翻訳でバカの一つ覚えのように言われる「極力意訳、省略をしない」という精神のもと訳されたみたいです(多分)。これは原作者の意図を出来るだけ損なわないようにするという翻訳理想郷を目指す訳者たちのムーブメントでして、そういえばこれが現在一般的であるがゆえに、稚拙な意訳本を「超訳」と言いふらして売るのが流行になったりもしましたね。
また、村上春樹がのたまう「旧訳は現代では古い表現が含まれているから訳しなおす」という意味不明な言い訳もたまに聞かれます。でも物語自体古い話なんだから旧訳で通じるなら今の言葉で訳しなおすのは一種ギャグじゃないんですか、と俺は言いたいわけ。だって言い換えれば、旧約聖書のモーゼが紅海を割るシーンで「追っ手が来ている?!でもこの先は海だし…。えぇ?!神様を信じればなんとかなるって?!でも…えぇ…僕はどうすれば…。くそっ!なるようになれだっ!モーゼいっきまーす(アムロの声で)」。チャールトン・ヘストンも涙目だよ。
すいません、ルンバの話でした。多分家は広くて多忙な人々にとってルンバはハイヤード・ガールさながらの便利さでしょうが、軽くアマゾンと化している狭き部屋に住んでいる我々にとってはルンバは意味がないんじゃないか、つまりルンバに来られてもルンバが動き回るスペースがない。つまりルンバが運動不足でストレスがたまる。ストレスが原因のルンバの夜鳴きでご近所さんに謝ってまわる羽目になる。機嫌をとるために週末に中央図書館とかにつれていってルンバのストレスを発散させる羽目になる。市の清掃のおばちゃんの仕事を奪ったと起訴される。社会的に落ちぶれる。と、以上のような経緯をたどる可能性を考慮しつつ、「それでも俺はルンバが欲しい!」というつわものは自己責任のもと下のリンクから購入するといいんじゃないでしょうか。
- iRobot Roomba 自動掃除機 ルンバ530 ホワイト/iRobot

- ¥価格不明
- Amazon.co.jp
最後に言っておくと、夏への扉の新訳を読むときに結構マジで「文化女中器」は「でっかいルンバ」になっていると思っていたのでがっかりでした。
■じょしらく
ガールズ落語家漫画。一話完結の形をとっており、日常のどうでもいいことからネタを広げながら話を展開させていく。表向きでは落語漫画ということになっているが、実際に落語をする姿は1ページ目の1コマ目で「おあとがよろしいようで」と言う場面でしか見られない(2011年現在)。また、寄席の楽屋が舞台となっており、外に出ることはない(戯曲作品における、一幕劇に類似)。登場人物名は、毎話1ページ目のめくりで明らかになっていく形をとっていた。作画では久米田作品に多用されるページ4段ブチ抜き画法を踏襲しているほか、会話や話の筋の展開に原作者の(当人はふきだし係と自嘲している)久米田康治の作風が如実に表れている。各話のタイトルは、それぞれ古典落語の演題に由来している(「猫の災難」、「あくび指南」等)。
このアニメを一言で言い表すなら「新訳・絶望先生」かもしれない。真剣に落語アニメだと思って、落語の世界に進んで行った古い知人のことを偲ぼうと身構えた俺の心意気を返して欲しい。彼まだ死んでませんから!
このアニメを語る上で避けては通れない道は、何故落語なのか、という疑問であろう。だれがどう見ても女の子たちが落語家である必要は皆無であり、小尾先生ならば主人公が落語家である意味を久米田に小一時間問いただす勢いじゃないだろうか。俺の見るところ、「落語」→「落伍」家(人生の落伍者)である登場人物たちが、俗世のあれやこれやをいちいちあげつらって無用な物言いを行うという皮肉であるという解釈が一般的になりつつあると見た。ところがどっこい、俺はそんなつまんねぇ説には騙されねぇぜ。これはおそらくタイトルありき。「けいおん!」みたいなタイトル付けたいという不純な動機から生まれたに違いない。そして構想当初は落語研究会、通称落研の部活物語だったに違いない。というかそうであると思ったんですが見事に騙されました。今後見ていくは不明。ももクロのEDは好きかもしれない。