将来をイメージすることが全くできてないのは、現在からその時点までの不確定要素をコントロールする自信がないからで、翻って過去を見ると、今までの経験が殆ど環境と与えられるものによって成り立っていて自分の意志とか行動によってその選択肢を掴んできた経験がないように思える
そう思えるのはそういう発想に今現在僕が支配されてるからってのが一番大きい。何かしようとしても、疲れたら明日動けないとか、失敗したらどうするとか、お金が足りないとか、それ意味があるのかとか、目先の不安要素に囚われてその結果突然モチベーションを失ってって引きこもることに落ち着く。
なんかしたら次疲れて動けないっていうのは明らかに僕の或る経験に依ってる。でもそれ以外のお金とか楽しみとかいう不安は、自分の外にあるお化けでしかない。そういうお化けに出会って戦うことをせずに生きてきた。お化けには勝てないものだと信じて、そこに塀を築いてる。
否、自分としては築いてるんじゃなくて、そこにあると信じ込んでるんだ。つり橋わたれの吊り橋みたいな。落ちたら死ぬ。渡らなきゃ死なない。
「悔しかったら吊り橋渡って駆けて来い」と言われて、勝手にいけよ渡った先にあるブドウが酸っぱいのなら行かねえよ、で完結してしまう。
ほんとに完結していたあの頃は、それで納得していたし、自分の正義を信じてた。しかしどうやら、自分が以前描いていた自分になるにはその橋を渡ることが重大な要素だってことに、ある時期気が付いた。
それが大学入って数年目のことだったんだが、そうなって突如として絶対的な無能感に襲われて
”僕が努力をすることは将来の僕のためになるのかもしれないけど、今現在の楽しみにはつながらず、なおかつ「かもしれない」のための努力でしかなく、もし頑張っても途中で疲れて倒れたらパーになるし、そんな自分を変えるための環境を作るなんてそれこそやったことない、無理すぎる”
アドバイスとして必ずいただく”早い話が手伝ってもらえってこと”なんだが、それを阻んでたう鼻くそみたいな自尊心は、単に”自分偉い”というよりは、たぶん取引というか損得というかリベートというか、そんな自身のない自分だからこそ手を貸してもらう価値を感じられなくて、
またしてもそこで自分の限界を作ってしまう節があったのかと。相手が誰であろうと(モノに関しては自分が飢えてるので与えることって滅多にないが、)自分が人に何かを教えたり力を貸すことは基本的に無上の愉しみに感じられるのに、立場が逆になると”相手のための僕は何ができる、”なんて
始める前に考えてしまうから、そこで自分が限界を狭める方向にループしていく。
他人は他人であって自分ではないという考えが常に付きまとっていて、自分の価値観を相手に求めることもその逆もできなかった様子。それもあって、他人に教わる意見も素直に呑み込めなかった部分があった。少し前までは。
気が利かないとか、空気が読めないとか、自分の世界とか、長らくそういうとらえられ方をされていたことについて具体的にその意味が分からなかったが、最近ようやく、複数の他人に似た特徴を見る機会を得た。自己嫌悪もいくところまで行ってゆっくり内省をしてきたころだったのだが、
まあその彼を見た時にはそこそこむかつくと同時に居心地の良さを覚えて、ああこの人自分と似てる、そこがすげえむかつく、と思った。この人が僕の鏡か、とか思ったりする程度に。はたから見て問題のある彼をどうしたらいいかは、すなわち僕をどうしたらいいかにつながる。と思う。
他人が自分を映す鏡だとすれば、そういうちょっとした個別の問題パターンを自分の知人に投影して、もういちど自分に取りこむことの繰り返しが、自分が何者かを知る糸口で、そのきっかけというのがごくありふれてるはずだったわけだ。
ありふれてるはずのきっかけが、まず長らく自分を見ることができなかった自分にとっては滅多に出会えない一部の人物によってようやく始まった気がする。その出会いは僕にとっても、僕の虚像のような彼にとっても、メリットのあるものだと信じてる。
それまでの過去の自分が他人にいかに見られていたか、どれだけ扱いづらかったか、そして今でもそれは続いているんだろうな、と考えられるようになった。長らく鏡を見ることをしなかった僕がちらちらと目を当てられるようになったことで、変わろうとしてる部分がある。
事実としてコミュ障を受け入れることと、それを盾に卑屈になることは違う。自分をそう評価したうえで求めるものが自分の外にあるなら、そこに手を伸ばさなきゃいけない。もとい、そうすることを選ぶ権利はある。その行動ための元気とはどこにあるのか、なんていうあほなことをしていた自分がある。
精神の経済というか、失敗を恐れてはじめからやらないスタンスとか、途中で区切りをつけられない考え方とか、そういうAll-or-Nothingを改めることができるはず。僕がコミュ障だとしてどうコミュ障か、自身にどんなハードルを無意識に立ててて、他方みんなはそこをどうしてるのか。
俺を誰だと思ってやがる!って、言ってみることが手かもしれない。もしかしたら。今(まで)、僕は誰なのかよくわかってない。その答えが出るかはわからないけど、今まで見てこなかったことのツケは間違いなく来ているので、今それはないがしろにできない気がする。気がする。
他人と分かり合いたいという考えのひとつ前段階に、自分と他人は絶対的に別物でありながら同じ根源から生まれてきた同じものという発想がひつようかもしれない、と最近思う。社会は他者を他者と切り捨てることでは生まれないし、自分がほしいものがその「しゃかい」に存在するとすれば、そこを見つめることは他人と自分を見比べて、同じ存在としてどう結び付けるか、なんてことができたらいいんじゃないだろうか。