ここまでで明らかになった非常に重要なことは、僕が中心で見ている時代(1930年代から50年代前半)は、女性の身体部位では明らかに「足」が映像における特異点であるということである。ダンスからしてチャールストンみたいなダンスは、足の比重が高い。この前見た『フットライト・パレード』(タイトルからしてフットが存在する)でバスビー・バークレーの三回あるレビューのシーンにおいて、どうしても最初の「ハネムーン・ホテル」が他の「噴水」や「上海リル」の回と比べていささか精彩に欠け、記憶にあまり残らないのも足ではなく女性の胸を強調したためだと思う。





例えば以下のような、きわめていい加減に取り上げたクリップであっても足がポイントであることはすぐにわかってもらえると思う。





50年代後半以降は、つまりジェーン・ラッセルやマリリン・モンローの登場あたりから、この関係は完全に逆転し、60年代のゴーゴー・ダンスに代表されるように足を動かさず体幹部をくねらせる踊りを許すことになる。ゴーゴーダンスを知らない人のために、同じ時代に存在していたことが恥ずかしくなるような映像だがクリップをつけておく。実際には、ほとんど動いていないにもかかわらず、映像のスイッチングで見せかけの運動を演出するという、いかにも60年代的な欺瞞的観念性に満ちている。





以上のように、最近まで思っていたのだが、そうでもないのかなと思ったのは、YouTube を見ているとナンシー・シナトラの例のクリップが9600万回視聴されている、その9600万回という日本の近い将来の人口にほぼ匹敵する数字を見たときである。なんだ、もっと正直になればいいのにと思った。そんなに異常者呼ばわりされるのが怖いのだろうか。